サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

25.「ゼロ視点」

 今年の1月から読売新聞に連載になっていた赤瀬川原平さんの「ゼロ発信」という連載「小説」が6月4日の日曜日で「完結」した。140回余りの連載だったが、結構興味を持って読んでいたのでまた寂しくなった。

 ところでこの「小説」、一々「 」を付けているが、一般に云われているところの小説とはかなり違っているのであえて「 」を付けてみたのである。 前にもこの「小説」に付いては触れたことがあるが、これは赤瀬川さん(この小説ではA瀬川さん)の身の回りで起こったことを日記風にかいたものである。
 それが何で小説なんだと言われるかもしれないが、A瀬川さんに言わせれば、これは「描写小説」だと言うのである。「現実の描写の中に小説がわずかに見え隠れする」小説であるそうである。そう云われれば文章で事物を表現するのだから写真やビデオのように事実そのものではない。

 明治の初期に正岡子規の主宰する「写生文」と言うのがあり、可能な限り忠実に写生すると言う考え方で、文章が作られた頃があったと聞いている。かの島崎藤村が我が故郷を書いた「千曲川のスケッチ」などでは、今でも藤村が立っていた位置までも特定できるほどの細密描写になっているが、この「ゼロ視点」はそれとも違い、A瀬川さんの持つ文学的描写によるものだと勝手に解釈している。

 A瀬川さんと言う方はこの「小説」に限らず、「老人力」も含めて実に奇抜なアイデアを考え出すことに長けた人だと感心する。名前の表示方法も然り、更にA瀬川さんの参加されている「路上観察学会」とか「ライカ同盟」とか「日本美術応援団」などのように、もっともらしい名前を付けて、各界の著名人とさまざまな活動をされているようである。
 もっともこれはA瀬川さんほどの著名人だからこそ出来ることであり、我々「一般人」がやったら「何だ、しょうもない事に」と思われ、変人扱いになってしまうかもしれない。

 このA瀬川さんの「ゼロ発信」と我が「雑言」とは時々、奇妙に符合することがあって、それも「雑言」が少し先行する場合が多く、思わずニヤリとする事があった。もっとも、向こうは今をときめく人気作家であり、もし後塵を拝するようなことになると忽ち模倣と言うことになる。「ゼロ発信」の結びはA瀬川さんの愛犬「ニナ」のことで終わっていたが、「ニナ」も我が愛犬「ペロ」とほぼ同じ状態で、老衰状態に入っているらしい。

 ちなみに我が愛犬「ペロ」のその後であるが、相変わらずの痴呆状態であるが、ひところより夜中に鳴く事は少なくなったような気がする。ただ、未だに毛並みは艶々しており、当分は健全な痴呆犬状態が続くことになりそうである。
  「ゼロ視点」と云うのは視点がゼロ、即ち視点(テーマ)が定まっていないと言うことだろうと勝手に解釈しているが、全体としては愛犬「ニナ」と猫のミヨのことが多かったようである。途中で軽い怪我などされて、この「小説」を読んだ知人からお見舞いを受けたりして、現実と「文学的描写」の狭間で様々なやり取りがあって、人気作家の生活を垣間見るような気分で面白かった。

 ところで、我が「雑言」は果たしてなんだろうとしばし考えてみた。A瀬川さんのような作家でもないので、文学作品というわけでもない。かと云ってあくまで私的な日記みたいなものとも違う。だいたいこのページを見てくれるのは圧倒的に私の知人・友人、更に親戚縁者から身内になる。検索エンジンにも登録していないので、余り通りすがりに覗いてみる人もいないと思われる。 そう考えるとなんとなく道化地味たことをやっていることに気がついた。

 こうしてみるとあまり赤裸々に自分の内面をさらけ出すのもどうかと思うが、かと云って柄にもなく着飾ってしまったら「何だあいつ気取りゃあがって」と思われるのも癪なので、ここまできたら後には引けないので、今までどおりに素っ裸で押し通すことにした。
 そうは云ってもやはりそこかしこに媚びている部分もあり、粋がるほどのものではない。

 この「雑言」、だいたい1週間に1篇のペースになっているが、特に意識しているわけでもない。だからと言ってキーボードの向かって一気呵成にと言うわけにも行かないので、ある程度は書き溜めている。書き溜めていると言うより、出すのを躊躇しているのが溜まっていると言うことになる。
 また、思いついたテーマを書き溜めて1行くらい書き出しだけを書いたものが幾つかあるが、多少は時事性を頭に入れている。起きてしまってから半年も経ってから持ち出しても意味がない。

 ところが、先日外付けハードディスクを増設している途中で(未だに未解決)、うっかり、書き溜めておいたものを消してしまった。書き出しているときはそれなりの意気込みで書いているが、二度書きはだめである。昨夜の燗冷ましの酒のようで、再度書こうという意欲はなくなってしまうものである。

 ただこうやって書いているとなんとなく、自分の懺悔録のような気がして、書き終わったときは、それはそれで清々した気分になるものである。いずれにしても1週1篇としても年に50篇、何も書くことが無くなった時、文字通りの「ゼロ視点」であり、解脱の心境に一歩近づいた心境になるのかもしれない。(00.6仏法僧)