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307.銭金の話し7

 一方、基軸通貨である小判の補助通貨とも云える一分判が、小判の鋳造に伴って発行されている。基本的は、一分判の量目は、その時に鋳造された小判の四分の一であるが、明和二年(1765)、幕府は錬金術師のようなことをやってのけたのである。

 すなわち幕府は、金貨と銀貨の交換レートの固定を狙って、「五匁銀」を発行したのである。質量は五匁、銀の純度は四十六パーセントで、「文字(ぶんじ)銀五匁」と表記されており、これは当時の元文丁銀と等品位であることを示した。

 五匁銀の発行当初は通用銀である元文丁銀と同じ秤量貨幣扱いとして流通させ、やがて当時の公定レート(金貨一両=銀貨六十匁)に従い、五匁銀十二枚で小判一枚と交換可能なものへと自然に移行し、銀貨で計数貨幣化を図ろうとする狙いがあった。

 しかし、当時小判一両の交換比率は、銀六十三匁が相場であり、実勢にそぐわないものであった。即ち、額面が固定される五匁銀は敬遠されて、間もなく通用停止の御触れが出たのである。

 代わって、この五分銀の反省から、「南゙二朱銀」が創鋳されたのである。「守貞謾稿」によると、「安永二年(1773)、南鐐を造る。すなわち二朱銀なり。重さ二匁七分なり。八つを以て小判一両に当てる。これ銀を以て金幣に準ずるの初めなり。」

 形状は長方形で、表面には「以南鐐八片換小判一兩」と明記されていて、いわゆる名目貨幣と云うことになる。

 しかし、小判と丁銀相互の変動相場による両替を元に利益を上げていた両替商にとって南鐐二朱銀の発行は死活問題であり、当時、経済の中枢を占めていた両替商の抵抗は激しいものであった。すなわち南鐐二朱銀の小判および丁銀への両替に対し、二割五分の増歩を要求するというものであった。

 南鐐二朱銀一両分(八枚)の純銀量が二十一匁六分であるのに対し、丁銀は一両を六十匁として、二十七匁六分の純銀量であったことから、実質を重視する商人にとって名目貨幣は受け入れ難く、含有銀量をもって取引しようとするものであった。

 現在人気の時代小説作家佐伯泰英さんの、「居眠り磐音シリーズ」でも、この不合理を扱った事件を取り上げている。即ち、秤量貨幣である丁銀に対して、南鐐二朱銀が割高になっており、したがって南゙二朱銀を安く買いたたき、それを幕府公認の両替商に持ってゆき、丁銀と交換しようと画策する事件である。

 そこで幕府は取り扱う両替商および商人への南鐐二朱銀に対する優遇措置を行った。
例えば「売上四分、買上八分」すなわち、両替商が南鐐二朱銀を売るとき買手に一両当り銀四分を与え、買上げるときは南鐐二朱銀の売り手から銀八分を徴収するよう取り決めた。

 また商人に対して南鐐二朱銀による貸付の場合は江戸では一万両、大阪では四万両を限度として三年間、無利子、無担保としたのである。

 その甲斐あってか、秤量銀貨に馴染んでいた西日本でも徐々に浸透し、丁銀、豆板銀といった秤量貨幣を少しずつ駆逐していった。また、明和期以前は一分判より低額面のものは寛永通宝一文銭であったため、この中間を補佐する貨幣の需要が高かったことも流通が普及した要因である。

 一方、丁銀から南鐐二朱銀への改鋳が進行するにつれ、市中における秤量銀貨の不足により次第に銀相場の高騰を招き、天明六年(1786)には金一両=銀五十匁をつけるに至ったのである。

 このような銀相場の高騰は、江戸における物価の高騰につながり、田沼意次の政治に対する批判勢力、松平定信らの推進する寛政改革へとつながり、南゙二朱銀の鋳造は中断されたのである。

 しかし、これでは幕府の財政改革は進まず、再び路線変更を余儀なくされ、寛政十二年(1800)の銀座改革以降、南鐐二朱銀の鋳造が再開されたのである。

 そして、文政七年(1824)には量目を減少させた、文政南鐐二朱銀(新南鐐二朱銀)を発行し、その後、天保八年(1837)発行の天保一分銀に計数銀貨の完成を見たのである。

 このような名目貨幣は幕府に利益をもたらすものであり、慢性的な財政難に悩む幕府にとって、もはや名目貨幣の発行は止まる所を知らないものとなっていった。

 ところで、名目貨幣とは、それ自身では商品価値を持たず法律の強制などで通用する信用通貨である。この名目貨幣(信用貨幣)を用いたのは、萩原重秀であったとされているが、これは疑わしい。
 
 なぜなら、最も名目貨幣としての存在価値を示すはずの宝永五年(1708)に鋳造した「十大銭」と言われる十文の「宝永通宝」を僅か一年で廃止したのである。即ち、荻原重秀は、貨幣の改鋳を名目通貨として扱う為の理論的考察はできていなかったのだろう。(11.04仏法僧)