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306.銭金の話し6

 宝永七年(1710)、「元字金(元禄金)を廃し、純金を以て改造し、重さ減じ小判一両(乾字小判)二匁四分、一分これに準ず。」

 荻原重秀失脚後、新井白石達は、良質の慶長金への復帰を図ったが、金の産出が衰退した中では充分な通貨需要を満たすことができず、小型にすることで金品位を上げることとしたのである。しかし一両あたりの含有金量は慶長金には僅かに及ばず、目方はほぼ半分で有り、二分小判と揶揄されるに至ったのである。

 そして四年後の正徳四年(1714)に、「武蔵小判」と呼ばれる正徳金を発行している。これは、四年前に発行した宝永小判が、二分通用となったが、二枚でも慶長小判より劣ることに対する市民の不満を緩和するための処置だった。

 ただ、宝永金の回収のため、通貨量が減少し、加えて吉宗のとった新田開発の推進から、米が増産となり、米価は下落した。

 これによって、一番困ったのは、武家であった。即ち、御扶持米の値下がりはまともに武士の懐に響いてくる。幕府は、各藩からの要望を取り入れ、それまで藩札の発行を禁止していたが、藩札発行を解禁したのである。更に、米価の値上がりを図るため、享保小判を発行し、貨幣の増大を行った。

 正徳六年、幼い七代将軍家継が僅か六歳で薨じると、代わって、紀州藩主吉宗が九代将軍となった。これに伴い、幕閣に兎角の批判が有った間部詮房と新井白石は罷免される。
 吉宗は米価の引き上げの諸施策を講じて、財政に困窮する武士および農民を救済しようと試みるが思うような効果を挙げるものではなかった。

 徳川吉宗の一連の改革は、享保改革と云われ、新田開発以外に、年貢に定免法の採用、脚高制による人材の登用、公事方御定書の制定による司法制度の改革、医療制度の改革など、後の幕府の改革の模範とするものであった。

 しかし、困窮する百姓や武士を救済する諸施策も、それほど有効な効果を上げることにはならず、有能な幕閣で有る大岡越前守忠相や、儒者荻生徂徠の考えを入れて、貨幣の改鋳に着手した。

 貨幣の吹き替えは、幕府にとってパンドラの箱であり、本来は貨幣価値の安定を図るべき幕府が、以後、このうま味が忘れられず度重なる吹き替えや、新幣鋳造により幕府崩壊への歩みを速めることになる。

 元文元年(1736)、「金銀幣改造す。小判重さ三匁五分、慶長より軽きこと一匁三分、金品元禄より勝り、慶長より劣る。」

 幕府は、旧金(享保金および慶長金)百両に対し、新金(文(ぶん)字金)百六十五両という大幅な増歩を付けて交換するというものであった。純金量を約四十四パーセント低下させる吹替えであったため、このような大幅な増歩を付けても幕府には出目が入った。

 こうなると、見栄も外聞もない、このような大幅な増歩での交換は通貨の急激な増大につながり、発行当初は急激なインフレに見舞われたが、この貨幣吹替えが当時の経済状況に即したものであったため、やがて物価および金銀相場は安定し、文字金銀は広く普及するようになり八十年以上の長期間に亘り流通することとなる。

 幕府御金蔵には、この頃三百万両があったが、天明八年(1789)暮には八十一万両余りに減少し、その前年から始まった倹約令(寛政改革)によって、寛政十年(1799)には百万両余りに回復した。

 しかし、天明三年の浅間山噴火による大飢饉を初め、臨時出費が続き、文化十三年(1817)には再び七十二万両余りに減少した。ただ、この時を境に、小判の価値は、改鋳の都度減じていった。ちなみに、元文小判は、重さも古金に比べ凡そ73パーセント、金の含有量も75パーセントと減少している。

 延享二年(1745)、吉宗は、長男家重に将軍職を譲り、大御所として実権を握りながら、家重を支えることになる。

 これより四十二年後の天明7年(1787)、徳川家斉が第十一代将軍に付くと、十代将軍家治の時代に権勢をふるった田沼意次を罷免し、代わって徳川御三家田安家の出で有る白河藩主松平家宣を将軍補佐、兼老中主座として迎え、寛政改革を行った。
 
 この頃は、吉宗が行った享保改革の頃と一変し、天明3年の浅間山噴火による天明大飢饉を始めとする天災が続き、米価を始めとする諸物の値上がりにより、再び、幕府の財政は悪化した。

 そして、市民の期待を集めて就任した、松平定信は寛政5年(1793)に老中を辞任する。

 その後、寛政の改革の遺法を守っていた老中松平信明が文化十四年(1817)に没するとすると、老中格水野忠成は九代将軍家斉のもと出目獲得により幕府蓄財の充実を図るため、文政元年(1818)から再び改鋳に着手した。

 文政二年(1819)、元文の吹替え(改鋳)により通貨は安定し経済が発展したが、同時に幕府の支出が増大し再び財政が悪化の一途をたどっていったのである。

 また文字金(元文判)は改鋳後、八十年以上の長期間に亘って流通したため損傷や磨耗が著しくなり、これを是正するという名目で、文字金の破損貨幣を無料で新金と引き換えるということにした。

 幕府は再び、パンドラの箱を開き、新金(新文字金)の量目(重量)は古文字金(元文金)と同一であったが、品位は低下しており出目による財政補填を目的とするものであったのである(写真文政小判)。

 前出の「代吉日々覚え」の天保七年十一月の条に、「古金銀真(新)字二分判共来酉十月迄に引換申すべく、御触れ申十一月に之有り」と書かれている。ただ、貧困にあえぐ我が祖先たちにとって、この御触れに応じられるようなものはどれほどあったのだろうか。ちなみに、文政小判は、元文小判より、更に金の含有量は低下している。

 天保七年(1835)は、未曽有の凶作であった(別掲「凶作」参照)。翌年二月に大阪で、元町奉行与力の大塩平八郎が、上役の無能に対し、武力を以て反乱をおこすきっかけとなった年である。

 この年に鋳造された保字小判は、文政二年に改鋳した新文字判の品位が元禄判よりさらに劣るものであったため品位を上げるという名目であったが、品位の上昇は僅かで、量目が三匁五分から三匁に引き下げられた。したがって、品位の向上と云うより、天保の大飢饉などによる幕府財政赤字補填を目的とする吹き替えであったのだろう。

 そして同じく「代吉日々覚え」に、「天保八年十月一日より、小判五両、壱枚(当り)新規御吹き立て小判壱分判共一両に付き五分目方御減り御吹き立て、二分判金一朱判は追って御取立の御触れ、酉十月六日に来る」と書かれている。

 代吉は、村役であり、村民に対して質屋のような事をして村民に資金を融通していたが、この段階で五両の資金があったのだろう。

 続いて、「酉(天保八年)十一月二十九日頃甚だ金詰まり」と書かれていて、幕府の困窮状態が手に取るように分かる。

 嘉永六年(1853)に、浦賀沖に黒船が来航し、幕府は開港を迫られた。そして安政三年(1856)九月に日本貨幣と西洋貨幣との交換比率を定めるための交渉が行われ、米国総領事ハリスは金貨、銀貨はそれぞれ同一質量(重量)をもって交換すべきで、一ドル銀貨の三分の一である天保一分銀三枚と交換すべきと主張した。

 一方、幕府側は、一分銀は、銀の多寡より一分と云う貨幣単位の名目貨幣であり、金貨四ドル分の金を含有する本位通貨である小判に相当するものであるため、一ドル=一分であると主張したが、結局、米国側に押し切られ、一ドル=三分の交換比率を承諾することになった。

 このため外国人大使は一ドル銀貨をまず一分銀三枚に交換し、両替商に持ち込んで四枚を小判に両替して国外に持ち出し、地金として売却すれば莫大な利益が得られるというものであった。

 ただ、この頃になると、小判の鋳造量は衰退し、思うように交換できなかったということだが、中には何回か両替を繰り返すことによって、小判の流失が多額になり、国内に深刻な貨幣(金幣)不足が生じることになった。

 安政の吹き替えは、外国人大使らの激しい抗議により、短期間での鋳造に終わった。ただ、小判の海外流失は、短期間にかかわらず多額に上ったため、ハリスは、「銀貨の量目を増大させ金銀比価を是正する」か、「小判の量目を低下させて同様に金銀比価を是正する」を提案してきた。

 幕府は、金の海外への流失を食い止めるために、再び貨幣の改鋳を行った。これを万延小判と呼んでいるが、大きさは、かつての慶長小判の半分にも満たない三十九ミリで、金の含有量も五十七パーセントにも満たなかった。その為雛小判と揶揄され、凋落の度を増す江戸幕府を象徴するようなものであった。(11.03仏法僧)