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305.銭金の話し5

 そして、話は小判で代表される金幣はどうだったかと云うと、慶長六年、徳川幕府の威信をかけて鋳造した慶長小判は、純度(純度87%)、質量とも申し分はなかった。

 しかし、前述のように鋳造以来九十年以上の流通により、磨耗、破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、修繕を必要とするものが多くなっていた、と言うのは方便で有り、実態は、元禄時代に入って、元禄十一年の江戸大火を初め、上野寛永寺本坊の再建や、各地の寺社造営により、莫大な資金が使われ、幕の財政は急速に悪化したためである。

 「折たく柴の記」によると、「前代の御時(綱吉)、歳ごとに其の出るところは入る所に倍して、国財既に躓きしを以って、元禄8年(1695)九月より金銀の製改造さる。
 之により、此のかた、歳々に納められし所の公利、総計金凡そ五百万両、之を以って常にたらざるところを補いしに、同じき十六年(1703)冬、大地震によりて傾き壊れし処々を修治せらるるに至りて、彼の歳々に納められし所所の公利忽ちに尽きぬ」と記されている。

 幕府は、これを改めるために、元禄八年(1695)、幕府は、次のような「金幣を改造し旧幣を廃止」したのである。
「一、金銀極印古く成り候に付、吹き直すべく旨仰せ出られ、且つ又近年山より出候金銀も多く之無く、世間の金銀も次第に減じ申すべき候に付き、金銀の位を直し、世間の金銀多出来候ため仰せ付けられ候事。

一、金銀吹直し候に付、世間人々所々、公儀へ御取り上げ成され候にては之無き候、公儀の金銀、先ず吹き直し候上にて世間へ出すべく候、其の時に至って申し渡すべき候事。以上」
 かつての黄金の国ジパングも、この頃になると金も枯渇し、加えて生糸貿易などにより大量の金銀が海外へ流出した。新井白石の『本朝寳貨通用事略』によれば慶安元年(1648)より宝永五年(1708)までの六十一年間に金二百三十九万七千両余り、銀三十七万四千貫余となっている。

 また、江戸時代初期から、慶安元年までの流出高については、詳しい記録がないが、新井白石が慶安年間以降の数値を元に推定した値によれば、江戸時代初期から宝永五年までに、金六百十九万二千両余り、銀百十二万二千貫余という、とてつもない量の金銀が流失いしていることになっている。

 その結果、幕府の手持ち金の不足が生じ、これを補うために、前出の幕府勘定奉行荻原重秀は、貨幣の金銀含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣吹替え(改鋳)を行ったとなっている。

 この金幣の改鋳が幕府の最高意思決定機関である評定所で決せられたのは、元禄七年である。これは、荻原重秀から提案されたものであるが、この時重秀はまだ佐渡奉行であり、幕閣と称される勘定奉行になったのは翌年である。ただ、都合四年間の佐渡奉行の時に、落ち込んでいた佐渡金山を再生させ、金銀などの合金技術を身に付けていたのであろう。

 そして、改鋳された新小判は、後に元字金と呼ばれて、幕府財政の再建に大きく貢献し、重秀は一役勘定奉行に抜擢された。
(写真は元字金)
 「守貞謾稿」によると「新金重さ旧制に同じと云えども、国用乏しきを以て、鉛等を混じへて金色鍮(ちゅう)石(じゃく)(真鍮)のごとくなり。新幣には元字を印す」

 この吹替えは慶長小判二枚の地金に灰吹き法によって精錬された銀地金を加えて新たに小判三枚を鋳造すれば通貨量は一・五倍となり、かつ幕府には吹替えによる出目すなわち改鋳による莫大な利益が得られるというものであった。

 この元禄改鋳にあたっては、慶長金ではなかった二朱判も鋳造している。品位は、元禄小判と同じだが、長方形短冊形であり、量目は一分判が小判の四分の一、二朱判が八分の一であった。

 幕府にとっては、一挙両得であり、濡れ手に粟のようなことであり、ここに目をつけた荻原重秀はかなり頭の良い男であったと思われるが、市民の目は誤魔化されなかったのである。

 幕府は次のように慶長金との引き換えを觸出したが、一旦失われ新金の評価は簡単には回復しなかった。

 「今度金銀吹直し仰せ付けられ、吹直り候金銀、段々世間へ相渡すべく候間、在来の金銀と同事に相心得、古金銀と入交せ、遣り方・請取・渡・両替共に滞り無く用い申すべく、上納金銀も右同時に成されべく事」

 加えて、新金の発行で、最も影響があったのは武士であった。そもそも、物価の変動は、需要と供給で決まるという事は一般的に言われている事だが、この時代は貨幣価値の変動によって引き起こされたものである。即ち、極端にいえば、今までは一両であったものが、元字金では、一両二歩で無くては買えないという事態になったのである。一方、武士は、藩主から受け取るのは御扶持米であり、それらは金に換算されて渡されていた。従って、所得は一気に三分の二に下がってしまった事になる。

 また、百姓は、年貢米は米のやり取りだから影響はないが、元禄時代に入って、急速に貨幣経済に移行しており、生活の多くの物資は値上がりをまともに受けたのである。

 ただ、幕府は膨大な利益を上げ、通貨量の増大は、商品の増加を促し、元禄景気を招来した。

 しかし宝永6年(1706)に綱吉が薨じて、六代将軍徳川家宣になると様相が一変した。
 この家宣と言う将軍は、歴代将軍の中で、三代将軍家光までの全権力を持っていた将軍を除くと、もっとも英邁の将軍ではなかったろうか。家宣は、三代将軍家光の孫にあたり、当初は、甲府藩の領主であったが、五代将軍綱吉に継嗣がいなかったので、綱吉の養子となって後を継いだのである。

 この時、家宣は、猿楽師でもある間部詮房を御側用人として、また儒学者の新井白石を侍講(政治顧問)として「正徳の治」と言う政治改革を実行した。

 新井白石は、重秀の執った貨幣改鋳に真っ向から反対し、「折たく柴の記」に次のように書かれている。

「此の程評定所に仰せ下されし事共をも、衆中(幕閣)に向かいて、仰せの旨然るべからず、論じ申すべき事ありと言いしに付けて、かかる姦者(かんじゃ)(重秀)の小人、用いさせ給う事の御誤り十条を記して、九月十日に封事(意見具申)を奉る。我言の激越なるを聞き召して驚かせ給い、明くれば十一日の朝に、詮房朝臣仰せを奉りて、重秀職を奪われし由を告げ給いしけり」

 新井白石の肖像画を見ると、いかにも厳めしい感じがし、此の白石が、「激越」なる言を聞き、並いる幕閣も一言の反対も無かったのであろう。 

 正徳二年九月二十一日、荻原重秀は、勘定奉行を罷免され、あまつさえ逼塞を命じられた。幕府の財政破たんを救いながら罪人に落された重秀は、逼塞からわずか一年後の失意と憤怒に中に生涯を閉じた。

 一方六代将軍家宣は、将軍在籍は僅か三年で重秀が罷免された翌月に薨去し、代わって、若干五歳の家継が、紀州藩主吉宗(後に八代将軍)の後見で七代将軍となった。これには、家宣の遺言で、引き続き、間部詮房が御側衆として支えることになる。(11.03仏法僧)