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304.銭金の話し4

 荻原重秀は、勘定奉行に就任するとともに、破産状態にあった幕府の財政立て直しの為に、予ねて計画していた貨幣の吹き換えを断行し、幕府に莫大な利益をもたらせたのである。

 ただ、この貨幣改鋳は荻原重秀が、ほぼ独断で行ったものであった。後に、萩原重秀の貨幣改鋳に真っ向から反対した新井白石の「折たく柴の記」によると、「国財既に尽き果て、すべて今より後の事共に、取り用ゆべきものなしと言う。

 前代の国家の財用、老中大久保加賀守忠朝司り由なれど、真実は荻原近江守重秀一人に任せられしかば、重秀、柳沢美濃守吉保、稲垣重富等と相計りし所也。されば加賀守も詳細は知らず」と書かれている。

 その背景には、貨幣改鋳がどのようにして行われ、経済にどのような影響が有るかなど、当時の幕閣はほとんど理解していなかった。この時の改鋳は単に金幣にとどまらず、銀幣、銭貨にまで及んでいた。

 しかし、宝永四年(1709)四代将軍綱吉が薨ずると、代わった六代目将軍家宣の側近間部詮房.や政治顧問の新井白石による追及により、正徳元年(1711)九月十一日に勘定奉行を罷免された。この経緯については、「折たく柴の記」の詳細に書かれているが、そもそも、重秀が改鋳を思い立ったのは、幕府の財政破たんに有った。

 この頃勘定奉行だった、重秀が言うには、「御領すべて四百万石、歳々納めらるる所の金は凡そ七十六七万両、此の内長崎での運上金四万両、酒運上金六千両、総て百四十万両、此の内、夏冬御給金の料三十万両余りを除くと、余る所四十六七万両旅也」と言うことである。

 「然るの去年の国用、凡そ百四十万両、此の外に内裏を造り参れせる所の料凡そ金六七十万両、されば今国財に足らざる所、凡そ百七八十万両、然るに只今御蔵に有る所の金、僅か三十七万両に過ぎず、此の内二十四万両は、去年の春武相駿三州の地の灰砂(富士山噴火)を除くべき役を諸国に課せて、凡そ百石の地より金二両を徴せられし凡そ四十万両の内、十六万両を以って其の用に当てられ、その余分おば城北の御所造営の料に残し置かれし所なり。これを以って、当時の用に充てらるるとも、十分が一にも足るべからず」というなり」と言う事で、まさに現在の国家財政のような状態であった。

 荻原重秀は改鋳により莫大な利益を幕府にもたらしたが、それによって引き起こされた諸物価の高騰を抑えることはできなかった。或は、重秀は貨幣の改鋳に依って、物価に及ぼす影響がここまで大きいとは思ってもみなかったのかもしれない。

 重秀の改鋳は、元禄八年(1695)に小判から始まって、その後、宝永二年(1702)に銀幣、更に宝永五年(1708)に「十大銭」と言われる、十文の「宝永通宝」を発行したのである。

 ところが、この「宝永通宝」は全く評判が悪く、僅か一年で取りやめとなった。その理由は、「一両=三.九〜四貫文より高下なく大銭を差混ぜて通用すべき」との触書であった。

 「宝永通寳」は量目二匁五分程度すなわち寛永通宝二枚半程度の銅銭であり、また金銭の計算に不便であったことなどから市場での評判はすこぶる悪く、両替商も苦情を申し立てる始末であった。その背景には、金・銀・銅とも、資源の枯渇と、輸入代金の支払いの為に大量に海外へ流失していったのである。

 ただ、「宝永通宝」については、重秀は否定的であった。「(宝永4年)、稲垣対馬守重富(若年寄)計らいにて、当十大銭ださるる事も申し行い給いき、十大銭の事は、近江守(重秀)も良からぬ事の由申せしと也、今に至りて此の急を救われるべき事、金銀の製の改造の他は、その他あるべからずと申す。加賀守(勘定奉行)年頃此の事を奉れるだに、その詳らかなる事を知らず、まして、其の余は、これ等の事始めて聞きしなれば、今に至りて、いかとも議すべく所を知らず」と何とも頼りない話である。

 「寛永通宝」は、それ以降も、場所を変え、所を変え、鋳造に鋳造を重ね、「守貞謾稿」によると、「これ以降も鋳次ぎあるか、未考。

 初銭と文銭(大仏銭)と正徳より享保に至り亀戸に鋳る物は上品なり。その他各形小薄、銅色下品なり。或いは鉄銭を用いること前代未聞。外国への聞こえも恥ずべきことなり。

 また皇家制の銭は、銭文あるいは宸(しん)筆(ひつ)(天子の筆跡)、或いは当時の能書を選び書す。近来の銭文は、卑賤の凡筆多し。これまた歎ずべきことなり。」

 「因みに云う、文化・文政の頃までは、百文の中には大略永楽一・二文交るあり。また寛永の本銭・寛文の文字銭等も、大略百文に八十文余りもこれありしに、今嘉永に至り、永楽銭は甚だ稀となり、寛永の本銭・文銭・大略百中に一・二文のみ交れり。

 恐らくは、今三五年(十五年)を経ば、これまた絶乏となりて鉄銭のみ多く、小薄下品の銅銭も今の本銭・文銭のごとく稀となるべし」(写真:寛永通寳鉄一文亀戸銭)

 江戸時代、銭貨は百文緡(ざし)といって、中央の穴に緡という紐を通して用いていたが、この場合、九十六文で百文とみなされ、四文は、切り賃と云われ手数料である。その百文緡に、古寛永通宝さえも一・二枚しか入っていなかったということである。

 江戸時代を通じて、寛永通宝がどのくらい発行されたか定かではないが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では二十一億一千四百万枚を超えると云われ、世界最大の発行通貨量である。この数値は鉄銭などとの引換に回収され安政年間に幕府庫に集積された数であり、既に述べたように鋳造高はこの程度にとどまるものではない。

 更に、これ以外に、仙台藩が鋳造した「仙台通宝」と云うのがある。「守貞謾稿」によると、「天明四年(1784)、仙台銭(仙台通宝)を鋳る。是は幕府の許を得て、伊達氏自国一州の用とするの鉄銭にて方形なり。他国使用禁ずれども、往々交えこれ有り。」
 
発行当時、一両につき十貫八百文の相場であったものが、後に二十一貫文まで下落し、天明七年(1787)七月に五ヵ年の期限を待たずに鋳造停止となった。

 寛永通寳と比較して値下がりしたことからこれを買い集め、寛永通寳の銭緡に交えて通用させ不正に利益を得ようとする者が現れた。仙台藩領を超えて江戸まで流入したため、文化三年(1806)に幕府はこれを厳しく取り締まる触書を出すに至ったのである。まさに、「悪貨は良貨を駆逐する」の典型である。

 そして、これを裏付けるように、前出の我が故郷に残る「代吉日々覚え」の文化三年寅五月の条に、「仙台通宝の儀、決して遣い申す間敷き旨御触れ之有り候」と書かれており、広く全国的に知らしめたのであろう。

 ところで、落語で、「雛鍔」と云う話がある。植木屋がお屋敷で仕事をしていると、八歳になる若様が庭で銭を拾い、「これはお雛様の刀の鍔であろう」と言う。感心した植木屋、家へ帰って倅にこの話を聞かせてやるが・・・、と云う話だが、私の子供の頃でも、この話のモデルではないかと思った天保通宝と云うのを見かけた。

 「守貞謾稿」によると、「天保中、当百銭を鋳る。一銭を以て寛永九十六文に当つる。銅銭なり。俗に百銭、或いは当百あるいは百文銭とも云う。」

 この天保通宝は、見た目は小判型であり、貨幣価値は百文とされたが、実際には八十文で通用したということである。いずれにしても質量的に額面(寛永通宝百枚分)の価値は全くない貨幣で、経済の混乱に拍車をかけ、偽造も相次いだということである。

 天保通寳は寛永通寳五〜六枚分の量目に過ぎず、吹き減りおよび工賃を差し引いても一枚十文前後のコストで製造可能である為、幕府は地方での発行を「禁制」として認めなかったが、幕末期に偽装工作としての地方貨幣発行の陰で各藩による密鋳が横行したということである。

 悪評をかこった天保通宝は、天保六年(1835)に鋳造を開始し、明治維新後も流通したが、明治二十四年(1891)十二月三十一日を最後に正式に通用停止となった。

 幕府は、財政困窮の中の、窮余の一策として発行したのだろうが、明治時代に引換回収された天保通寳は五億八千六百七十四万枚にも上り、これは金座および貨幣司が鋳造したものを一億枚以上も上回る数であり、かつ流通高のすべてが回収されたわけではないため、密鋳は二億枚程度に達したとも云われている。

 凡そ寛永通宝と呼ばれる銭貨が鋳造されたのは次の通りである。(11.02.20仏法僧)