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303.銭金の話し3

 以後年号が変わっても、一貫して「寛永通宝」となる。
 明暦年間(1655~1657)の条例、「諸令類彙(るいい)」によると、「寛永の新銭金子一両に四貫文、勿論一分には一貫文売買となるべし。若し違背を致し、高下売買仕るに於いては、双方よりその売買の一倍を過料として出すべし」、更に「大かけ(欠け)、われ(割れ)銭、かななし(文字等不明)、なまり銭、新悪銭、このほかこれを選ぶべからず。若し、右五銭を押しつけ、随う者は、その前に三日曝し、或いは籠舎と為すべし」並々ならぬ決意で臨んでいる。

 寛永通宝のうち、万治二年(1659)までに鋳造されたものを古寛永と呼び、その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文八年(1668)以降に鋳造されたものを新寛永と呼ばれた。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体もあらわな違いがあるということだが、私の目には文字の太さ以外には眼につかない。

 私の子供の頃でも寛永通宝はよく目についたが、驚いたことに銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和二十八年まで、銅貨四文銭は二厘、銅貨一文銭は一厘硬貨として法的に通用していたということである。もっとも、私の子供時代でも、物の値段で一厘単位のものはなかった。

 寛永十三年(1636)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置し、公鋳銭として寛永通宝の製造を開始した。主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本の銭座であったが、水戸藩、仙台藩、松本藩、三河吉田藩、高田藩、岡山藩、長州藩、岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していたということである。

 古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見当たらず不明ということであるが、鋳銭目標などから推定した数値では三百二十五万貫文、即ち三十二億五千万枚と云う想像を絶する量であったということである。

 幕藩体制も確立し、寛永通宝も全国に普及して鋳造し始めてから三十年ほどたった寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。

 「守貞謾稿」に、「寛文八年、京師大仏の銅像を毀(こぼ)ちて、寛永通宝の銭を鋳次ぐ」と書かれている。これは、京都・方広寺の大仏を鋳潰して銭を鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていたということである。また、裏に「文」の字があることから、文(ぶん)銭とも呼ばれていた。

 方広寺は、秀吉によって建立された天台宗の寺であり、秀吉により奈良東大寺に倣った大仏殿の造営が行われ文禄四年(1595)に完成した。

 大仏は、東大時より大きい十八メートルあったということだが、慶長元年(1596)に地震により倒壊し、その後、秀頼によって再建されたが、寛政十年(1798)に落雷による火災で焼失して以後は再建されなかったということである。

 この方広寺は、梵鐘に刻まれた「国家安康」、「君臣豊楽」の銘文が家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆(ぼうとく)するものとみなされて、大阪の役による豊臣家滅亡を招いたとされる因縁の寺である。

 そして、この頃から子供のころ習ったグレシャムの法則「悪貨は良貨を駆逐する」を地でいくような時代に突入し、幕府の崩壊につながる。

 元禄時代に入り、市場に流通していた慶長小判は、磨耗や破損の著しいものが多くなり、切れ、軽め金などが大半を占めるようになり、修繕を必要とするものが多くなっていた。

 そこで時の勘定奉行の荻原重秀は貨幣の金銀の含有量を下げ、通貨量を増大させる貨幣吹替え(改鋳)を行ったのである。

 これは品位を低下させるものであるため、その秘密保持の観点および改鋳利益を確実に取集するという目的から、慶長期には自宅家業である手前吹きであった貨幣鋳造方式を改め、江戸本郷霊雲寺(文京区湯島)近くの大根畑に建てられた吹所に金座人および銀座人を集めて鋳造が行われた。

 この吹替えは元禄八年(1695)に始まり元禄十一年十一月に終了し、金座人および銀座人は京橋および京都両替町の金座および銀座に復帰したが、以後も小判師を金座に集めて鋳造を行わせる直吹方式に変更することとなったのである。

 この品位の低下した元禄金銀の発行により銭相場が高騰し、元禄七年(1694)に一両=四貫七百文前後であったものが元禄十三年(1700)には一両=三貫七百文前後となり、正徳年中(1711~1755)には、二貫二百八十文にも高騰した。

 加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行の荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一匁程度から八分程度となり、元禄十一年(1698)からは江戸亀戸で、元禄十三年からは京都七条の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称荻原銭と呼ばれている。

 京都七条における元禄十三年三月より宝永五年(1708)一月までの八年間の鋳造高は百七十三万六千貫文、実に十七億三千六百六十万枚余りとなったのである。

 然らば、荻原重秀とはいかなる人物かと云うと、荻原家の始祖は、甲州武田氏から別れて甲州荻原村に移り住んだと云うことで、武田氏滅亡後は、三代甚之丞昌之が徳川氏に仕えて旗本となった。荻原家本家は八王子に留まり分家の一つと共に代々八王子千人同心の千人頭を勤めたという家柄である。

 荻原重秀は、旗本荻原十助種重の次男として万治元年(1658)に江戸に生まれ、延宝二年(1674)に弱冠十六歳で幕府勘定方に列し、同年十一月七日に将軍家綱にはじめて謁見し、延宝三年(1675)十二月、切米百五十俵を支給されたというとてつもない英才であったのだろう。

 その後も順当に出世し、四代将軍綱吉のもとで元禄八年(1695)には、一千石の加増(都合千七百五十石)となった。翌九年には、勘定奉行に就任し、二百五十石を加増(都合二千石)となり、同年十二月に従五位下近江守に叙任されている。(01.02仏法僧)