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302.銭金の話し2

 「天正十六年(1588)、大判小判を幕府に制す。以来の貨幣皆武家の所制にて、皇国の制は絶せり。

 天正中、天正通宝の銭あり。銀銭・銅銭二品ともあり。」
 天正通宝は、秀吉によって発行され、主として有功の将士に対する褒章用の貨幣であった。金銭と銀銭があったと云うことで、貨幣の本来の目的である、商品の流通の為ではなかったのである。

 戦国時代の武将に、この「永楽通宝」を旗印にしている武将(仙石氏)もあり、当時の武将は、戦勝の褒美は領地を賜ることと思っていたが、永楽銭を以って褒賞としていたのかもしれない。

 流通用の銅銭も鋳造されたと言われるが、詳細は不明で、豊臣家が大阪の陣で滅亡しているため、流通した期間は短い。秀吉の発行した貨幣には他に天正大判、文禄通宝(文禄元年(1592))などがある。

 「天正の小判・一分判および天正銭・文禄銭は、秀吉奏して請うて造る所ならん。慶長・元和以降、当幕府の制なり」

 黒澤明監督の、「隠し砦の三悪人」最後の場面で、三船敏郎さん扮する秋月家侍大将真壁六郎太が、百姓太平と又七に大判を差しだすシーンがあるが、多分、天正大判だろうと想像しながら見た記憶がある。

 そして、慶長三年(1598)、秀吉が没し、慶長五年関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康によって天下統一がなされ、江戸時代の到来となる。

 その翌年、後藤庄次郎光次に命じて大判・小判を鋳造させた。当時、小判師が吹屋職人を率い、各自で製造した判金を後に金座と呼ばれるようになった後藤役所に持参し、品位および量目を改めた上で極印の打印を受け両替商に売却することにより発行されるという、いわゆる「手前吹き」という形式であった。

 これが、「慶長小判」であり、慶長小判とは江戸時代の初期すなわち慶長六年(1601)より発行された小判で一両としての額面計数貨幣である。

 また慶長大・小判および慶長一分判を総称して慶長金と呼び、さらに慶長銀とともに慶長金銀と呼ばれ、徳川家康による天下統一を象徴する江戸幕府による初期の貨幣として重要な位置を占めるといわれている

 江戸幕府は、貨幣の全国統一を行うべく、三貨制度(小判、丁銀、銭貨)の整備を行ったが、これは既存の貨幣流通すなわち、大阪の商人を中心とする極印銀すなわち秤量銀貨の流通と、庶民の渡来銭の使用に加えて、武田信玄が鋳造させた甲州金の貨幣単位である四進法の「両」、「分」、「朱」を踏襲したものであったということで、ここから通貨制度の混乱が始まる。

 「守貞謾稿」によると、慶長金銀は次の通りである。
 「大判  楕円形  重さ三十六匁、すなわち小判七両二分に当たる。
  小判  同形    重さ四匁八分、
  一分判 方形    重さ一匁二分
  挺銀(丁銀)    重さ不定、大略四十匁内外、俗に丁銀ともいう。
  砕銀        重さ不定、大略一粒四、五匁より五、六匁に至る。砕銀、俗に
 豆板と云うなり。今の京阪俗は、これを小玉と云う。丁銀は板がねともいう。
江俗は、砕を銀玉、丁を生(な)海鼠(まこ)という。この金銀幣とも純金銀の最上品なり。
 銀は四十三匁を一枚と云い、四匁三分を一両とす」となっていて、後に幕府が褒賞などに与える銀一枚とはここから出発しているが、「守貞謾稿」の作者喜田川守貞氏(うじ)さえも間違えるほどの混乱をきたしている。即ち、銀は、四十三匁で一両である。

 ここで金銀幣はひとまず置いておいて、庶民の貨幣銅銭について話を進める。
 「慶長十一年(1606)、慶長通宝の銭を鋳て永銭を廃止す」となっている。ただ、当時の鋳造記録が殆ど無く、江戸幕府による鋳造を否定する説もある。
 
 だが、永楽通宝の使用を禁ずる法令が幕府から出されている事から、永楽通宝に代わる然るべき銅銭が存在したと考えるのが妥当であり、そして慶長十四年に御定相場として金一両=銀四十匁=永楽通宝一貫文=京(きん)銭(せん)四貫文の交換比率(変動相場制)が定められている事から、この「京銭」が慶長通宝に当たるのではないかと考えられている。

 ただ、金一両=永一貫文とする永勘定は前年の慶長十三年(1608)に廃止されていたとされているが、年貢などにはその後も仮想通貨として引き続き永勘定が用いられている(別掲「年貢の納め時」参照)。

 当時は幕府が成立したばかりであり、延喜七年(907)以来、七百年の間、銅銭の鋳造が滞っていたものがこの時期ににわかに復活すると云うことは考えにくい。

 「当時、関東、永楽と鐚の撰(えら)みにより、民人騒動ある故に、ここに及ぶ。しかれども、慶長多からず、民用乏しきを以て、寛永に至り大いに鋳銭して民用備わる。」

 寛永十三年(1636)、三代将軍家光の代になって、満を持して「寛永通宝」が発行された。
「守貞謾稿」によると、「寛永十三年(1636)、銅銭を鋳る。文に云う、寛永通宝なり。今に至りこれを専ら用いるなり。当時、江戸と江州坂本と二所に鋳る。ともに幕府の制なり。江戸は浅草の橋場と芝と二所なり。芝の地、今も新銭座と云う。寛永の銭は、永銭に劣らぬ上品銭なり。

 銭を始め金銀幣に至り、惣じて古制より劣れるが故に、諸物の価、自ずから高直になること、その実は高直に似て高直にあらず、幣数幣位の称(とな)えのみにて、今の銭を鐚に比すれば、劣るとも勝るべからず。

 たとい鐚と近制の銭と同位とするとも、寛永の銭を永楽に比すれば、大略今の銭の四、五文に当たるべし。」

 誠にややこしい表現だが、「鐚」銭とは、欠けたり、藩によって鋳造された私鋳銭の事かと思っていたが、「永」と云う仮想通貨に対する「寛永通宝」の呼び方でもあったのである。(10.01仏法僧)