サイバー老人ホーム

300.銭金の話し1

 江戸時代の貨幣として小判や、銭があったことは時代劇でもおなじみでよく知られている。ところがこれが一筋縄でいかないほどややこしい。それと云うのも、小判は主に関東方面で、西国は主に秤量貨幣の銀が通用した。

 それに加えて、銭と云うのが単一通貨かと云うと、そうではない。一般的にはよく知られた寛永通宝の一文銭であるが、これに加えて鐚銭と云うのがある。更に、年貢などの場合は、永と云うのが出てくる。これらが合わさって、日本全国で流通していると云うのだから始末が悪い。

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」で、お馴染の弥次郎兵と喜多八、御伊勢参りからさらに足を伸ばして京見物と洒落込み五条新町で宿を取り、おやま(女郎)を買うことになるが、ここでも大失敗をやらかすことになる。

 買ったはずのおやまに逃げられ、おまけに喜多八は自分の着物まで持ちに逃げされてやむなく古着屋で布子(綿入れ)を求めることになる。その古着屋の亭主とのやり取りが面白い。
喜多八「安くしてくんねえ」

亭主 「その紺のお卑(ひ)衣(え)(木綿の綿入)じゃな、(と算盤ぱちぱち)ええと、三拾五匁とんとギリギリじゃわいの」

喜多八「たかい、たかい、わっちら江戸者だが、古着は商売柄いくらも取り扱っているから、やるもんじゃねえ、本当のところを云いなせえ」

亭主 「おまいさまも古着屋なされてかいな」

喜多八「いや、わしは質商売さ」

亭主 「質とあれば何かいな、お取りなさるのか、置きなさるのかいな」

弥次 「置くのがこの男の商売さ」

喜多八「それだから、質に置くときの算用からしてかからにゃあ買われやせぬ。この布子は、どうしても壱貫より他は貸すめえから、弐朱ばかりに買わにゃあ損がいく」

亭主 「何云いじゃぞいな、後家の質屋へ持っていっても、金壱分は物云わず貸すわいな」

喜多八「とんだ事を云う。どうして一分貸されやしょう」
と双方大いに揉めるが、見かねた弥次郎兵が、中に立って、「何(なに)角(かど)と面倒なその布子、一貫に負けてやりなせえ」と云うことで決着がつく。
 このやり取り、江戸者の弥次喜多と、京者の古着屋の亭主との間の会話だが、庶民の日常会話の中で交換価値の異なる通貨についていとも簡単に執り行われていたのだろうか。

 そもそも、貨幣と云うのは、商品の交換価値を表し、商品を交換する際に媒介物として用いられ、同時に価値貯蔵の手段ともなるものと云うことである。

 歴史的には貝殻・布などの実物貨幣にはじまり、金銀が本位貨幣とされるようになり、現代では鋳貨・紙幣・銀行券が用いられるようになったと云うことである。

 日本では、商品の交換が最初に行われたのは、八世紀初頭、大宝律令が制定され、律令国家ができてからと云うことである。律令制定に伴って、正史日本書紀の編纂、風土記の撰上、度量衡が制定され銭貨の鋳造などが行われたということである。これらは律令に直接の根拠を持つものではないが、いずれも律令制に不可欠な構成要素であったとされている。

 国は、戸籍をもとに、一定の資格を持つ者に、一律に同じ面積の口分田を与え、それらから、租庸調と云う税を収納したと云うことは、はるか昔に習ったところの記憶の断片である。

 これらの税が、基本的には物納であったが、一部は銭納でも認められたと云うところから貨幣の出現が始まる。

 この貨幣の始まりが、「和同開珎」であると云うこともかすかな記憶の中にある。
おなじみ「守貞謾稿」によると、「白鳳十三年(680頃)、銀銭を廃し、銅銭を用ゆという、ともに異邦に鋳る所なり。

 和銅元年(708)、銭を鋳る。銅銭なり。あるいは銀銭なり。また云う銀銅並び行うなり。同二年、私(ひそか)に銭を鋳ることを禁ず。和銅の銭文、和同開珎と云う。」

 このため年号を和銅と改めてと云うことは聞いており、我が国にとって、まさに画期的なことであった。そしてここから資本主義への果てしない道がつながっているわけである。

 ところが、昭和四十四年に平城京跡から「富本銭」が発掘され、平成三年にはさらに古い藤原京跡からも発掘された。

 しかも、「富本銭」が発掘された地層から、七百年以前に建立された寺の瓦や、六百八十七年を示す「丁亥年」と書かれた木簡が出土した。一方、『日本書紀』の天武十二年(683)の記事に、「今より以後、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」との記述があることなどから、発掘に当たった奈良国立文化財研究所は、同年一月十九日に、和同開珎よりも古くに鋳造されたものである可能性が極めて高いと発表し、大々的に報道されたのである。

 これにより、「最古の貨幣発見」、「歴史教科書の書き換え必至か」などとセンセーショナルな報道がなされたのは周知の事実である。

 一方、和同開珎の後も、大宝元宝、開基称宝、万年通宝、神功開宝、隆平永宝、富寿神宝、承和昌宝、長年大宝、饒益神宝、貞観永宝、寛平大宝、そして、「延喜七年(907)に延喜通宝を鋳る」と凡そ二百年の間に立て続けに新しい貨幣を鋳造している。

 なぜこれほど多くの貨幣を鋳造したのだろうか。一つには、貨幣として流通するほど、十分に満たされていなかったのだろう。さらに、貨幣として、それほど信頼に足る出来栄えではなかったことに寄ったのではなかろうか。

 延喜通宝は一枚に対し旧銭十枚の交換比率が設定されたと云うことだが、朝廷発行の貨幣の中では、質の低下が極まり、銭文が判読出来るものはむしろ稀で銅貨というよりも鉛合金と言った方が適切なものもあったと云うことである。

 即ち、延喜七年とは、桓武天皇の御世で、平安遷都の行われた延暦十三年(794)まで、あと九十年足らずであり、貨幣経済への移行で混乱があったのではなかろうかと思っている。

 そして、「この後、皇国の鋳銭を聞かず。異邦の銭を用ゆ。足利義満明朝の封を受くにより、かの国の銭を日本に頒行す。これ「永楽通宝」なり。皇国これを専用す」

 永楽通宝が流通したのは、室町時代に入ってからであり、平安時代から鎌倉時代に掛けて、日本国内の商業・物資流通が活発化すると共に貨幣の必要性が重用になっていったのだろう。しかしながらその時代には律令体制が崩壊しており、銭貨鋳造を行う役所も技術も廃れていた事から、中国から銅銭を輸入してそれを国内で流通させていたのである

 これも、子供のころの記憶だが、銅銭を輸入するために、金・銀を輸出して確保したと云うことである。

 かつて、日本という国を称して、黄金の国ジパングと云う事を聞いたことがあるが、諸外国から見た場合、当時の日本はまさにその通りであったのだろう。

 その中でも明の永楽帝の時代の永楽九年(1411)から作られた銅銭永楽通宝(永楽銭)が、室町時代中期に大量に輸入された。

 一方、日本の民間で鋳造された私鋳銭の品質が悪かったことから、鐚銭と呼ばれ、永楽通宝一文に対して鐚銭四文に見立てられたということになっている。

 永楽通宝が主に流通していたのは伊勢・尾張以東の東国であり、特に関東では永楽通宝が基準通貨と位置づけられ、これを永高制といわれ年貢などの査定には後々まで繋がっている。

 この永楽通宝について「守貞謾稿」に、「当時、関東は特に永楽銭を専用せり。その所以は、応永十八年(1411)大風あり、明国の船、相(相模)の三浦が崎に漂着す。

 鎌倉の足利氏、人を遣りて点検するに、永楽銭百万貫あり。その状を京都将軍に告ぐ。将軍の命に、舶中諸財を鎌倉に収め、塩噌・薪および米を与えて舶を放ち還す。この永楽銭を以て専用とし、関東に賈(こ)道(どう)(商業)を定む。

 関東は小田原北条氏の領国となるの時、庶民鐚という悪銭を交え用いる。故に売買の事により、毎度民間に騒動あり。

 氏康臣僚に令じ、高札を阡陌(市中)に建て、以後鐚銭を交え用いることを禁じ、永楽のみを用いることを命ず。これによって鐚は西国に遣る。故に之を号して京銭と云う。銭品賎(ひく)きをもって、永楽銭一文に鐚四、五銭を値すとなる」(11.10仏法僧)