サイバー老人ホーム

348.行き当りバッタリ

 NHKbsに「世界ふれあい街歩き」と云う番組がある。文字通り、世界の町々を歩き回る番組であるが、始めの頃は、「何だ、これは!」と聊か奇異に捉えていた。ところが何回か見続けるうちに非常に興味を持ってみるようになった。

 そもそも、この番組、いわゆる紀行番組だが、一般的な紀行番組のように、名所旧跡や、名物を漁って歩く紀行番組と違って行き当たりバッタリに世界の街を歩き回るだけの番組である。従って、名所旧跡を訪ねる一般的な紀行物に慣れている人にとっては少々物足りない。
 ところが、この番組にはそうした奇をてらったところや、美味くもない名産を妙に媚びたりするところが殆んど見当たらないので、慣れると至極心地よい。インターネットで調べて見ると、「ステディカムで撮影した映像と、アフレコしたナレーションだけで構成され、視聴者にあたかも「自分で街を歩いている感覚」を疑似体験してもらおうという趣向の旅番組である」という事である。

  世の中難しくなって、今度はステディカムとは何かというと調べて見ると、カメラマンがカメラを持って撮影する場合、振動などを感じさせない為の撮影装置らしい。成程、そう云われてみれば、私のような老眼が直に眺めたよりはるかに明瞭で、とてもテレビの映像とは思えないほどである。

 最近は、世界各地でNHKがこの番組を撮影しているのが理解されたのか、撮影時に出会った人々の対応が極めて好意的である。多分、NHKBs放送を通じて、世界的にこの番組を通して知れ渡って来たのだろう。その結果として、最近、世界の人々の日本人への理解も深まって、その結果が先の東京オリンピックの決定などにもつながって来たのではないかと勝手に想像して気を良くしている。

 そもそも、テレビの紀行番組は、えてして押し付けがましかったり、出演者の過剰な表現が目につくものが多い様に感じている。美男、美女がこれ見よがしに名所旧跡や美食を披露する様はその埒外にある老人の僻みもあって快く眺めている心境にはならない。勿論、その背景には体の都合はとにかく、懐具合の都合もあって滅多にどころか、海外旅行などには絶対に出かける事も出来ない僻みもある。

 ここでは、その僻み根性を並べ立てようというのではない。そもそも、旅と云うのは、お決まりの名所旧跡巡りや、その土地々々の名物をこれ見よがしに見せびらかしたいとは全く思っていない。この「世界街歩き」のようにまったく予期しない形で、歩き回り偶然に触れる處にたまらない楽しみがある。即ち、そこに至る過程と云うのが重要なのである。

 考えて見ると、私は若い頃から放浪癖みたいなものが有って、機会があれば歩き回った。尤も、その頃から肝心な懐具合は芳しくはなかったから、相応の旅を狙っていたのかもしれない。

 私がまだ二十代の頃は、ゾーン周遊券と云うのがあり、昭和三十年代の後半から、各企業が夏冬でまとめて休暇をとるようになって、この周遊券を使って歩き回ったものである。ただ、「行き当たりバッタリ」とは言え、全くの無計画で出発したのではない。出発に当たっては、基本となるコースを決めて、それに従って、「行き当たりバッタリ」に宿泊所を捜して歩き回る、それにはそれの楽しみがあった。

 その中には当然、名所旧跡もあったが、これが取り分け狙いではなく、宿泊施設はこれらの場所の方が確保しやすかったと云うだけで、宿泊道具を持てるようになってからは、文字通り「行き当たりバッタリ」になった。

 最近、同じNHKbsで、火野正平さんの「日本縦断こころ旅」という番組がある。これは自転車に乗って、全国各地を渡り歩くという番組で、これも取り分け名所旧跡と云うわけではなく、視聴者から寄せられた思い出の地を渡り歩くという番組である。

 「世界ふれあい街歩き」に比べて、少々愛想が無いようであるが、ここに出てくる場所をリクエストした人は当然であるが、多少なりとも思い出のある人にとっては何とも言えないなつかしさがある。去年の暮れ頃から、かつて私の活動範囲だった東京の世田谷から、川崎、横浜方面が取り上げられたが、思わず画面にくぎ付けになった。

 こうして眺めると、日本と云う国は、どこへ行っても過疎化に覆われているようで、東京などの一部大都市では繁華街としての盛況を保っているようであるが、世田谷辺りでも、私の記憶にあるころに比べたらはるかに過疎化の傾向にある様である。従って、地方都市の外れともなれば私が日々目にしている風景がごく当たり前になっているのは当然である事にようやく気が付いた。

 ところで、私にとって、毎年恒例で続けている旅がある。それは「青春18きっぷ」の旅である。この「青春18きっぷ」について今更説明するまでもなく、このサイトの別コンテンツにも紹介の通りである。何故、これを続けているかと云えば、当然のことながら安い事である。ただ、安いというだけでなく、「行き当たりバッタリ」の偶然性と云うのがたまらなく楽しいのである。

 「なんだ、そんな事か」などと思わないで頂きたい。そこに至るまでには、並々とは言わんが、それなりの苦心があるのである。

 この「青春19きっぷ」が使えるのは、年に三回であり、私はもっぱら春先を使っている。その背景は、熱くもなく、寒くもなくという気候上の理由が第一である。なぜ、気候を重視するかと云えば、参加者がすべて老人ばかりであるからである。

 毎年、近隣の暇老人に声をかけ、今年はとうとう十五人になった。当然のことながら、最近の女性(云うまでもなく老婆)の方が圧倒的に多い男冥利に尽きる人員構成である。
 かつては、各駅停車にはわずらわしさがあったが、最近は、これが寧ろ楽しみになった。目的地に至る過程を窓から眺めていると、かつてこの国が栄華を誇った一時期の思い出の数々、取り分け無人駅にはかつて朝晩をたくさんの人が行き交い、何人もの駅員が規律正しく様々な呼称を掛け合っていたことが思い出され、時代の流れの速さを感じる今日この頃である。(14.02.15仏法僧)