サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

48.養成工

 昭和30年代の初めまで大手製造業の中に養成工という制度があった。中学を卒業したばかりの少年達を採用し、働きながら勉強させて一人前の職工に育て上げるのである。といっても集団就職の少年達とは少し違うのである。

 どのように違うかといえば採用の際に全国から募集して試験を通じて採用するのであるが、その応募者は全国の中学の成績優秀者だったのである。またその応募者の多いのも特筆すべきもので、10倍、15倍という応募者が集まり、そんじょそこらの高校の入試倍率など及びもしなかったほど人気が高かったのである。

 入社後には概ね寄宿舎に入って青年学校という教場で、現場実習と学科が行われ、講師は中堅の学卒社員によって行われていたが、これまた極めて優秀な指導者達であったのである。ただ、学校法人ではなく、卒業しても高卒の資格を取れないのは唯一の不満で、多くは夜間高校に通っていたものが多かったと記憶している。

 ここで養成された優れた「職工」が当時「工業立国」を標榜していた日本の貴重な礎になっていたのである。今ではあまり話題にもならなくなった「技能五輪」の各種目で圧倒的な強さで優勝や好成績を残した人の中に養成工出身者が多く含まれていたのである。

 私が某生産会社の養成工試験を受けたのはまもなく中学を卒業する厳冬の2月であった。このときは同じ中学から4名が受験することになり、信州の片田舎から夜汽車に乗って上野駅に向かったのである。

 途中、中央線に乗換えまでにかなりの待ち時間があり、駅待合室のストーブを囲んでじっと列車の到着を待ったのである。外に出ると厳冬の月に照らされて白銀に輝く甲斐駒ケ岳が覆い被さるように聳え立っていたのである。

 新宿に早朝に着き、山手線を一周して上野で更に時間待ちをして常磐線で受験する会社と同じ名前の駅に向かったのである。
 指定された宿舎に泊まり、翌日受験であったが、試験場に着いてその受験生の多さに驚いたのである。私の受験番号で8倍程度であったがそれをはるかに上回る受験生が集まっていたのである。

 結局、四人のうち一人だけは合格したが私を含めて三人は落ちたのである。このとき最も自信のあった数学の問題がどうしても解けなかったのは大変なショックであり、当時の「悪ガキ」としては大いに面目をつぶしたのである。
 結局その1ヵ月後に高校を受験して進学したのであるが、このままでは終わらなかったのである。翌年再度挑戦したのである。ただし今度は親にも学校にも内緒で、一年間僅かな小遣いをためて旅費をつくり、学校の帰りにそのまま今度は信越線回りで上野行きの夜行列車に乗り込んだのである。

 しかし結果は再び失敗であったのである。前回の失敗に懲りて、今度は一年間にわたり受験準備をしての挑戦であり、結果についてもかなり自信を持って臨んだのであるが、以外にも不合格であったのである。後から思うに、多少負け惜しみではあるが、採用は養成工という性格からフレッシュマンに限られていたのではないかと思っている。このときの挫折感は何とも言いようがなかったが、これが私の少年時代との決別の出来事であったのである。

 その後、この養成工という制度は高度成長の波とともに、人手不足に拍車がかかり、あわせて高学歴化の中で、大企業の持つ身分制度の矛盾を克服できないことから消滅していったのである。即ち、大企業の「職員」「工員」という身分制度の中で、養成工出身者はどこでも優秀な技術者として迎えられ、せっかく養成してもそうした人材を引き止めるだけの魅力を大企業は持ち合わせていなかったのである。養成工制度の消滅とともに、技能五輪から日本の名前が消えたのである。

 なぜこれほどに執念を燃やしたかといえば、少年の頃の夢は電気屋になることであったのである。いささか小さすぎる夢かもしれないが、腰に道具を巻きつけて電柱や建物の高いところで仕事をする電気屋はなぜか格好がよかった、ただそれだけである。

 最近、中学高校生に不登校の生徒が増大しており、抜本的な教育改革が叫ばれているが、教育現場の改革だけではなく、受け皿側の改革が必要ではないかと思っている。人材を学歴や出身校によって決めるような受け入れ方をする限り、いつになっても教育制度などは改まらないのではないかと思っている。
 いくら個性を尊重した教育したところで、判で押したように「優秀な人材」を求める受け皿側、とりわけ大企業や公務員の採用方針が変わらなければ、個性豊な人材など育つものではない。結局受け皿が求める教育ということになってしまうのではないかと思っている。

 もっとも受け入れる側に「優秀でない人材」を要求しても無理な話であるが、しからば何が優秀であるかといえば、これが難しい。勿論、試験や面接技術が優れていたものが優秀かといえばそんなものではない。人間の持つ能力は多様であり、誰にでも優れているものは必ずある。これを生かされてこそ、求める側も受け入れる側も幸せになるはずである。

 かつて大企業が自ら求める人材を育て上げたように、全てが大学を出なければ仕事ができないわけではない。中卒であっても高卒であってもその適性に合った受け皿は必ずある。そしてそれを望む者を育て上げることを社会全体が分担し合うことではないかと思っている。

 今更養成工制度を復活しろといっても無理な話ではあるが、とりわけ社会的資源(人材を含めて)を大量消費する大企業や官公庁の受け皿の多様化こそが教育制度改革への責務ではないかと勝手に思っている。

 ところで、あの時、もし試験に合格していたなら、一介の職工としての人生を歩むことになるのであるが、その後の高学歴社会の中で果たして幸せであったかどうかは分からないが、少なくとも自分の仕事への疑念を持つことは無いことから、もう少し従順な生き方ができたのではないかと思っている。(01.01仏法僧)