サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

157.澱み

 北島三郎さんの「川」という歌の一節に「川の流れと人の世は、澱みもあれば、谷もある」と言うのが有る。歌詞もメロディも力強く好きな歌である。

 この「澱み」と言うのは人生における停滞している時期のことをさしているのだろうが、最近とみにこの「澱み」が目に付くことがある。私自身がこの「澱み」の時期に入っていることにもなるが、「澱み」の中には本人の自覚によるところもあると思われるが、もっとも大きな要因は周りの環境から知らず知らずのうちに澱みになっていることがある。

 我が「愛しのタイガース」、昨年はすっかり有頂天になり、今年のオープン戦まではその余韻を引きずっていたがどうやら入梅にはもう少し間があるというのに、すでに梅雨入りしたようである。

 昨年と比べ下馬評では戦力的にはむしろアップしたと思われていたが、先日などはとうとうオレ流の中日に1安打で負けてしまった。何がこれほど変わったかと言えば監督が藤原寛美モドキになっただけで何も変わっていない。それでは監督の采配がどこか変わったかと言えば昨年に比べて何もしていないこと以外はそれほど変わったわけでもない。

 ただ、この何もしていないと言うことが無能だから何もしていないと言うなら良いが、何かの思い込みで何もしないと言うことは最悪である。
 もともと野球などチームプレーと言っても個人の能力や調子に負うところが大部分で、監督の采配などは全体の10パーセントかそこらではないだろうか。ただ、最後に競った場合はこの10パーセントが物を言うわけで、この差がチームの成績と言うことになる。

 それではどうすればこの10パーセントを発揮させられるかと言えば一にも二にもチームの雰囲気である。この雰囲気を守り立てる虎キチの狂気はどこに出しても誇れるものがあるが、今年のチームはもう一つ盛り上がらない。その最大の理由は寛美モドキ監督の思い込みである。

 何を思い込んでいるかと言えば「名門チームのエリートはすべて良い」と思っていること、更に過去の名選手は常に良いと思っていることである。
 確かに今年の新人はかつての岡田以来の逸材かもしれないし、やがては力を発揮するときが来るだろう。しかしどだいはアマであり、それで飯を食っているプロ野球とはおのずと違い、かつて岡田のライバルだった掛布などは努力であそこまで来た人である。

 名門出身でドラフト外指名のエリートだからと言う理由だけで2割にも満たない選手を使っていたら、日夜血の出るような努力をしている選手にしたらたまらない。勿論実践を通して力をつけさせるという考えもあるだろうが今のタイガースにはそんな余裕などない。それに全体の中の一人二人ではないかと思われるが、そこが大問題なのである。

 水と言うのは澱むとすぐに腐ると言われるが、チームの中で一人の選手に対する納得のいかない起用はその影響をこうむった選手を腐らし、直ぐにチーム全体の波及する。近代野球の中で技術的なことや作戦的なことで監督が影響を及ぼすことなどほとんどない。唯一絶対的なものは選手の起用に対する選択権である。

 ところが選手にしてみればそれによって自分の価値が全て決まることになるから大変である。勿論、万人が見て妥当と言うものはないかもしれないがスポーツには数値で表されるものがあり、また選手個々の持ち味と言うものがあり、場面場面で得意とする能力と言うのもあるはずである。

 今年の寛美モドキ監督の場合、昨年と明らかに異なるところはこうした選手個々の持ち味を引き出すような選手の起用がないと言うことである。
 たとえばキャッチャーの野口などたまに代打や代走として出してもらうことはあるが本業のキャッチャーとして出場したところなど見たことがない。野口にしてみれば何でも出してもらえばよいと言うことではなく、正捕手矢野と競い合ってあわよくばと思っているに違いなり。
 勿論矢野の力が上と言うこともあるが、良い意味で矢野に休養を与えるような起用があっても良く、他のポジションを含めて昨年は良く見かける光景だった。最近の矢野を見るにつけ明らかに疲れていて、野口起用の余地は十分に有る。

 シーズン初めにモドキ監督が「スターティングメンバーはできるだけ代えるべきでない」と言うような趣旨の発言をしていたが、それも一理あるが過度のこだわりは思い過ごしである。ありきたりの代打やリリーフは有っても昨年のようなチーム全体で戦う雰囲気に盛り上げる選手の起用はない。

 先日どこかに勝ったときお立ち台に立った今岡に昨年のような燃え上がるような高ぶりはなかった。個人の力量が大きく物を言うと言っても、基本はチームプレーである。チーム全体の高揚感がなくて勝利などおぼつかないだろう。

 昔、学校を卒業して初めて実社会に出たときに情熱のすべてを傾けた会社がある。世間にも自慢できる会社と思っていたが、ただこの会社、歳とともにどうしても相容れられないところがあった。それは入社したそのときからほぼ将来のあり様が決まってしまうのである。すなわち、学歴、学閥、門閥と言う古い体質を明治の昔からそのまま引き継ぎ、本人が如何に努力してもこの壁を打ち破ることはできなかったのである。

 結局「人、すべて人材」の思いを持ってその会社を後にしたが、あれから三十年、今、存在すこと自体が社会悪と取られるようなマスコミの攻撃の的となっている。世間の大多数に受け入れられる正義など限られたエリートの澱んだ組織の中では決して生まれない。

 最近のタイガースを見るにつけ岡田監督の一流主義がなくなくまで今年のタイガースは期待はできそうにもない。どうやら今年の梅雨は殊の外長そうである。(04.06仏法僧)