サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

192.八百万の神々

 日本には昔から沢山の神々がいる。火には荒神様、水には水神様、山には山の神、その他木にも、石にも岩にも自然の万物に神が宿っていると言われている。

 我々はそう言う中で有史以前から長い事育ってきて、我々日本人の宗教観を形づくっている。その根底は自然に対する畏敬と、ご先祖に対する尊敬の念である。
 そこには教祖も教義も教団も無い。そして日本の風土や民族文化を離れて独自の歴史を持った事もなく、平均的日本人に個々に生活習慣として認識されている程度のものである。

 全国の村々には鎮守の神様として、それぞれの歴史の中で異なった形で神社として存在している。更に各集落においても氏神様、更には家庭においては神棚として祭られている。

 ところで、今中国との間で問題となっている靖国神社であるが、靖国神社ができたのが明治2年の事で、祭神は戊辰戦争で斃れた人達を祀るために創建されたと言うことある。これには明治天皇の思召しがあったと言うことであるが詳細は定かではない。

 もともと神道では人は死ぬと神様になるとされており、始めは東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っていると言うことである。
 以後幾多の戦争や事変で亡くなった人を祀ってあると言うことである。このことは或る程度国民の中に理解されているが、それならば平均的日本人が信仰の対象として靖国神社を参拝している人などおよそ殆どおらないであろう。

 もともと、日本の神道の場合、祭神は一箇所に定住するのではなく、祀りの都度、榊や供え物を備えて呼び寄せるもので、特に場所を特定しなくて良いはずで、この事は日本人の生活習慣の中でいくらでも見られる事である。

 ところで、日本と中国の関係を見た場合、まだ日本人とも認識されない腰蓑一枚で原野を走り回っていた頃に、あの国は、既に絢爛たる、銅器文化が花開いていた。

 その後ようやく国としての形が出来つつある頃から、この国の文化はおよそ全てと言っても良いくらいあの国からもたらされた。そして多くの日本人が新しい文化を求めて危険を冒してまでもあの国に渡り、この国を治めるためのあらゆるものを持ち帰った。

 この事はおよそ全ての日本人が理解している事であろう。ようやく日本の国の形が整い、あの国の文化を取り入れたこの国独自の文化を作り上げる中で、双方の国はそれぞれに混乱し、ある次期は疎遠な時期もあったのかもしれない。
 しかし、この国を作り上げる中で、あの国が、この国の師であったことはまごうかたない事実である。

 その後、あの国は長い間に清王朝の支配の中で、政治的民族的停滞により、世界列強の進入を招く結果となった。その頃、この国も同様な経過をたどっていたが、勤皇攘夷の旗印のもとこの苦難を乗り越えた。

 一方世界は列強の植民地主義の名のもとに、あの国に租界という治外法権を確立し、不平等条約をもとに自国の利益を図ることになる。
 この世界の流れに乗り遅れまいとする日本は、あの国に日本独自の権益を確保しようとする。この中には、欧米列強に対して、かつてはこの国の師でもあったあの国に対する援助と言う名目もあったかもしれない。

 ただ、結果は紛れも無い侵略であることは間違いない。そして明治27年、朝鮮を清朝支配から切り離し、朝鮮を属国として支配しようとしたこの国の間に日清事変が勃発する事になる。

 この戦勝に、日本は下関条約によって台湾、遼東半島、澎湖諸島の支配を手に入れることになるが、この間の双方の主張にはそれぞれのいい分があるに違いない。

 これに味を占めた日本が、あの国の間に幾多の介入事件が発生し、遂には太平洋戦争に突入する事になる。
 その結果、中国はもとより朝鮮半島、更には東南アジアの諸国の人々に対し、多大の迷惑と苦しみを与えて、敗戦を迎える事になる。そして、いかなる日本人でもこの事実を謙虚に受け止めていない日本人はおるまい。

 これが日本と中国、更には朝鮮半島全体との関係の、ごく平均的日本人の歴史認識ではないかと思っている。

 しからば、現在この国とそれらの国の間で起こっている問題はなんであるかと言うことになる。

 先ずこの国の人々との宗教観は明らかに小泉首相と異なっている。勿論、戦没者に対する小泉首相と同様な意識がないわけではない。無謀な戦争を仕掛けた事による代償は国民一人一人が負わなければならないし、また負ってきたと思っている。

 またA級戦犯と言っても、三国同盟のドイツやイタリーとはことなり、独裁政治の中で独断で決せられた事ではない。

 戦争と言うのは勝てば官軍、負ければ賊軍と言われ、歴史は勝者の歴史である。だからと言って、かつて血眼になって租界を求め、自国の権益確保に躍起となった欧米列強があの国の人々にとって、全てが救いの神だったとは思わない。

 その中で、A級戦犯として裁かれて死んでいった人々の冥福を祈る事さえ他国に制限される事にはいささかの抵抗がある。

 ただ、だからと言って、それらをお参りするのに、僅か百五十年前に造られた靖国神社でなければならないと言う思いは全くない。

 また、A級戦犯の合祀といっても、そこに遺骨や遺体が安置されているわけでのなく、あくまで観念的なことである。

 確かに信仰に自由を他国からとやかく言われる事には疑問があるが、今の小泉首相の考えと国民の意識の間には大きなギャップがあると思う。
 己の信念とは言え、大部分の国民がその存在の意味すら感じていない靖国参拝によって、他国との摩擦を引き起こして自国に利益を損なうなどということは、愚の骨頂に見えてならない。

 それ程参拝がしたければ、お天道様に向かって、または山に向かって毎日でもすればよい。この国には八百万の神々がそろっていて、きっと願いはかなえられるに違いない。
もっとも、これはわが国だけでなく、問題にする相手国も同じであるが・・・。(07.06仏法僧)