サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

132.「野球石器時代」3

 この物語で、重要な役割を占めているのが利発な美少女、波多野武女である。彼女は退役軍人の娘で、出自も育ちもよい少しおませな美少女である。このムメにはバラケツも一目置き、ムメの前では借りてきた猫のようにおとなしくなるのである。

 我が北牧小学校にもムメがいないことはなかった。ムメのように男の子を差配できる女の子は何年に一人の割合で出てくるようで、私の頃はミワコちゃんがその部類ではなかろうか。今でも同級会の東京在住者を纏める要になっていて、時が時ならば、彼女はきっと我らが同級生の中で最も名を成したのではないかと思っている。
 尤もこのミワコちゃんには、「幼馴染」の角屋の女ボスが後ろ盾についていたから迂闊には手出しはできなかったのかもしれない。

 バラケツにはブギウギ・トンボという「フウテンの寅さん」をド派手にしたような兄と、赤パンパンという「こんな女に誰がした」ような姉がいる。この兄姉が江坂町で様々な事件を引き起こすのであるが、どこか憎めないところがある。
 このパンパンというのは外人相手の売春婦のことであるが、当時はそうした陰湿な印象は持っていたわけではない。言うなれば、今はあまり見かけなくなったが、ひところ猛威を振るったガングロ姉ちゃんのように、ド派手な服装でいるものを全てこう呼んでいたような気がする。

 竜太の友達の一人が、「猫屋」という奇妙な名前の飲み屋の女給にたいしてパンパン呼ばわりをしたといって、身包みはがれて折檻されるくだりがある。結局、竜太達がおチンチンを出して海に向かって一斉に放尿することによって開放されるのであるが、子供にとってはなんでもないことであったが、女性にとっては許しがたい言葉であったのである。

 私にとって今でも恥ずかしくて口に出せないことがある。それは同級生の女の子にパンパンにつながるニックネームをつけたことである。勿論パンパンとはっきり言ったわけではないが、いわゆる可愛い子の順に一パン、二パン、三パン・・・としたのである。言うなれば自分の好きな順にこう呼んだのかもしれない。
 勿論、普段の学校生活の中でこう呼んだわけではなく、悪童たちの間でだけ通用していたが、当人の耳に全く入らなかったわけではない。このことについてはその後の同級会などで顔を合わせるたびに平身低頭して謝っているが、今となっては自分の心の痛みとなって何時までも消えることがない。

 ムメは卒業前に父親の仕事の関係で神戸に越している。我が北牧村でもこの頃多くの別れがあった。戦争中に疎開してきてそのまま居付いていたが、世情の安定とともに一人二人と帰っていったのである。この帰っていく生徒に限って頭も良く、女の子は美貌の持ち主が多かったような気がする。それは泥のついたジャガイモのに対し、服装も言葉も洗練されていたからで、ミワコちゃんもその一人ではなかったかと思う。

 ムメとはその後も竜太、バラケツとも付き合いは続くのであるが、我が北牧村では男女の付き合いは極めて閉鎖的で、竜太達のようなおおらかさはなかった。だからといって決して関心がなかったわけではなく、寧ろ逆であったかもしれない。なまじ女の子と話している場を見られ「女好き」「軟派」「助平」あらゆる罵声を受けることを何よりの不名誉と思っていた。多分これは育った自然環境によるもので、水平線から空が広がる江坂町と、周りに連なる山並みの隙間に空を見上げる北牧村の相違ではないかと思っている。

 もう一つ竜太と共通しているもので、アメリカのボストンに展示される絵を画くということがある。今まで見たこともない大きな画用紙に苦心して書いて美しい女先生に誉められたとなっているが、私も四年生(22年)に同じように画かされたのである。
 ボストンであったかどうかは記憶にないが、校内の展覧会で、そこに展示された私の作品をその立派な画用紙に画き直して提出するように指示されたのである。

 その絵は家から見た隣村の集落を小さな紙に書きなぐったもので、自分としては、まるで気に入らなかったのである。その絵が選ばれて書き換えることになったが、あまりに立派な画用紙に、やけに構えてしまい丁寧に書いたものだからすっかり面白みがなくなってしまった。何度も当時の担任のフミコ先生に注意されたが元の絵に戻ることはなく、あの絵がボストンに行ったかどうかは知らない。

 それからこれは続編(紅顔編)に出てくることであるが、竜太が書いた作文を「まるで横光利一のようだ」と誉められるのである。横光利一の作品はまだ読んだことはないが、私の場合は蒋介石というあだ名のついた怖い国語の先生から「志賀直哉の文章に似ている」といわれたことがある。これが誉めたのかどうか分からないが、このことは雑言「豚、木に登る」に書いたように、私が文章を書くことが好きになったきっかけであった。

 当時、高校に進学するのは竜太の江坂町も我が北牧村も少なかった。特に女の進学率は少なかったようである。竜太はその後淡路島でも有数の高校に進学するのであるが、私の場合はまだこのあともこの雑言「養成工」事件が待っている。

 小中学校までは竜太も私もほぼ同じ目線で過ごしたようであるが、高校に上がってからの竜太と私には大きな差が出ている。竜太が間もなく肺浸潤に犯され長期欠席したことにもよるが、私の場合は小学生の頃の天衣無縫ぶりは時が立つにつれて姿を消してしまった。

 竜太は孤児であるが、駐在所の巡査である祖父に育てられており、経済的には我が北牧村よりは恵まれていたのかもしれない。私の場合は家庭の事情を肌で感じていたから自分の行動はかなり自制していたような気がする。
 竜太が高校に上がってから頻繁に映画を見ているが、高校時代に映画を見たのは数えるほどしかない。我が北牧村にも馬流劇場というのが一軒あり、江坂町の遊楽座のように1階も2階も畳敷きの小便の匂いのする劇場だった。

 あるとき学校の帰りに友達に誘われて映画を見たことがある。その映画はシナトラの「地上より永遠に」であってそれなりに感銘したのであるが、終わった時間はかなり遅く、家に着いた時は家族は皆寝た後だったのである。その時の罪悪感から今後このようなことは二度としないという誓いを立てて、「地上より永遠に誓う」と血染めで書き記した事があった。

 しからばその後、二度と遅く帰ることがなかったかといえばそんなことはない。多感な頃の一時の感傷であったかもしれないが、少年の頃の天衣無縫さを無理やり封印してしまった一事件で、これがその後の私の思考力までも封印してしまったのかもしれない。
 この頃竜太に会っていたなら間違いなく「お前は不良だ」となじっていたと思うのであるが、どちらも何故か物悲しさの残る青春の一時期であった。

 その後竜太は大学進学のために神戸から上京するのであるが、その翌年の同じ頃に信州のローカル線の小さな駅から私はボストンバッグを片手に就職のために故郷を後にするのである。そして更に1年後に竜太と同じ駿河台であるが別の大学に今では死語になった苦学することになるが、もしかしたら御茶ノ水駅の何所かで登下校のときにすれ違っていたのかもしれない。

 結局竜太と私はほぼ同じ時代を生き、誰もがそうしなければならないような必然性の時代の中で育ったが、人生というのは夫々に大きく分かれていくものである。私自身、阿久悠さんには勿論お会いしたこともないが、今回遅ればせながらこの作品を読んで、我々世代を代表する寵児が少し身近な存在になったような気がするのである。(03.09仏法僧)