サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

131.「野球石器時代」2

 終戦間もない昭和20年11月に初めてプロ野球の東西対抗が行われたとなっているが、このことは全く記憶がない。但し、昭和22年に第29回中等学校野球大会が行われ、小倉中学が優勝したことは記憶にあり、この頃竜太達は野球をはじめている。

 この物語の表題のもなっている「瀬戸内少年野球団」江坂タイガースの誕生である。竜太5年生で美しい女先生が指導している。ちなみに私がかの阪神タイガースを知ったのはこの時期で、竜太の記憶力に対抗して当時のタイガースのオーダーは次のようなものではなかったかと記憶している。尤も外野のポジションと打順には少し自信がない。
1本堂(2塁)
2白坂(遊撃)
3別当(1塁)
4藤村(3塁)
5土井垣(捕手)
6後藤(センター)
7金田(レフト)
8呉(ライト)
9若林、御園生、梶岡・・・(投手)
 野球といっても三角ベースで、ボールは軟式テニスボールを使ったものであり、この時期を阿久悠さんは「野球石器時代」と呼んでいて、まことに言いえて妙である。バットなども旋盤屋のおっちゃんに頼んで丸太を削ってもらっていたらしいが、この辺りは文化だけでなく、経済の光も当たりかたは強かったようである。

 我が村ではもっぱら自分達で削っていたのである。削るといっても普通の丸太など竜太達と同じに、とても削れるものではなく、それに重くて使い物にならない。そこで考えたのが桐の若木を使ったのである。これだと軽くてしかも削りやすい。但し欠点はもろくて軟式ボールだとすぐ折れてしまうのでもっぱらテニスボールだったのである。

 三角ベースというのは何もベース盤が三角ということではない。ベースを置くところが二箇所しかなく、通常ダイヤモンドに相当するものが三角ということである。これだとごく狭い敷地と、最低3人でも野球ができる便利さがあり、近所の仲間と日の暮れるまで遊びほうけたのである。

 この物語で、竜太とバラケツが隣町までハーモニカの試合に行き、惨敗して帰る途中で転がってきた「健康ボール」を拾ったものと思い、「心臓が焼玉エンジンのように、スッポン、トットトトト、スッポン、トットトトトと踊りはじめた」のである。この「健康ボール」というのは軟式野球ボールのブランド名で、この頃のボールには丸の中に健の字が入ったマークがついていたのである。

 今でこそ、我が家のペロが健在であった頃、公園を散歩すると必ずくわえ出してくるほど何所にでも転がっているが、当時はめったに手に入らない貴重品であった。

 私の場合は軟式ボールではないが、兄が川に流れているテニスボールを拾ってきてくれたことがあった。その嬉しさたるや、焼玉エンジンは見たこともないから分からないが、山にこだます雷鳴のように胸が高鳴ったのである。
 ところがそのボール、ゴムの継ぎ目がはがれていて使っているうちにすぐに凹んでしまうのである。そこで軽石でこすり、アラビア糊を小さな布にたっぷりつけて塞いだまでは良かったが、これを乾かすために当時あった囲炉裏のすみにおい置いたところ、ついうとうとと居眠りをしている間に転げ出し、気がついてみるとボールに大きな穴があいていたのである。その無念さは胸が高鳴った分だけ大きかったのである。

 グローブについては、竜太達は「少年倶楽部」についていた付録のグローブの型紙で、家族に作ってもらったらしいが、その記憶はない。もしかしたら「少年倶楽部」が買えなかったか、あっても材料の帆布が手に入らなかったのかもしれない。
 その代わり刺し子手袋を使ったのである。この刺し子手袋というのは、今で言うならば料理手袋のようなもので古布を何枚も重ねて刺し子にしたもので、鍛冶屋や荒仕事に使う作業手袋だったのである。但し、これは大人用に作られたもので、手の小さい小学生には至極使いにくいもので、軟式ボールを受けたときの痛みを和らげるだけの代物であった。

 グローブはこの頃売られているのは布製で、真中にお義理程度に皮が張られていたが、これでも個人で買える代物ではなかった。
 当時、自前の野球道具を持つというのはごく特殊な家庭(裕福)であったかもしれない。我が村では、この雑言「53.幼馴染」に出てくるセキネだけではなかったかと思う。

 このセキネとは竜太とバラケツのように私とはよきライバルであり、友達であったのであるが、思うと竜太とバラケツの両方を二等分して持ち合ったようなもので、その分お互いに大成もしなかったのかもしれない。

 我が北牧小学校に本格的に野球をもたらしたのは、「幼馴染」に出てくるヤマグチ先生で、竜太達の女先生と違い、学校を出たばかりの熱血漢の男先生だったのである。
 ヤマグチ先生には昭和23年の5年生からで、この頃は野球もようやく国民的スポーツになっており、大人まで集落毎の試合をするまでになっていた。

 ヤマグチ先生率いる「北牧少年野球団」は、竜太の属する瀬戸内少年野球団と違い、地区ではかなりの好成績を残したのである。その中心となったのがセキネで、彼は高校に進んでからも野球部に入ったが、その後の野球人生で花開くことはなかった。多分、関西、四国に挟まれた野球どころと甲子園初戦突破もできない野球後進県の差であったかもしれない。(03.08仏法僧)