サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

158.約 束

 私たち夫婦が結婚したのは今から40年前の昭和40年である。この年の前年は東京オリンピックとそれにともなく東海道新幹線の開通と、戦後日本の一大イヴェントが行われた年であった。

 この頃から経済大国日本の道をまっしぐらに突き進んだのであるが、当時のサラリーマンはそれほど豊でもなく、また今のような経済格差があったわけでもない。

 当時の結婚式と言っても今の様なド派手なものではなく、ごくささやかなものであった。私たちの場合も会社の厚生施設を使って、親戚と会社の同僚たちが集まってのごく内輪のものであった。

 したがって新婚旅行などと言っても外国旅行などは言うに及ばず、熱海・湯河原などと言うのが一般的ではなかったろうか。勿論それだけの資金的な余裕がなかったこともあるが、新婚旅行などを理由に何日も休暇をとるなんてことは当時の常識の中に入っていなかった。

 それと交通機関が今と違って、飛行機と言う乗り物は一般市民の乗るものではなく、更に新幹線は開通したばかりで座席指定を取ることも容易ではなかった時代である。

 新婚旅行の行き先を決めるに当たって、九州は家内の郷でもあるし、今後否応なしに行くことになるので、できれば北海道に行ってみたいと思い、調べてみると列車と青函連絡船を乗り継いで北海道の土を踏むだけで2日もかかり、結婚式の終了時間によっては3日もかかることになる。

 ただ、新婚生活のスタートは小さなお勝手が付いた6畳一間の間借りであり、この家賃と新婚旅行の1泊の費用が同じと言うことが北海道行きを断念した最大の理由であったかもしれない。

 結局「いつかお金と暇ができたときに行こう」ということで熱海で1泊し、伊勢志摩・京都と言うことになったのである。ただ、それ以降にも行く機会がなかったわけではないが、私の身勝手な都合が優先し、現役を引退するまでこの約束は果たされることもなかった。

 もっともそれまで毎年行われる会社の慰安旅行や趣味の山登りなどで私個人としたらむしろ人並み以上にあちこちと歩いていたのだが、ただ家内にしてみると実家への帰省と子供がまだ小さかった頃の何度かの家族旅行以外に余り旅行らしい旅行はなかったかもしれない。

 定年後も、これも男の勝手な都合で働けるうちはなどと言う理由でそのままであったのである。ようやく仕事の区切りの付いた平成13年になってそろそろと思っていた矢先に思いもやらない脳梗塞という病に冒されることになったのである。

 こうなると旅行はおろか買い物に同行することもできそうもない。自分の気持ちとしたらこの雑言「人生に絶望なし」などと思い込ませていたが正直なところ、正に絶望の淵に立たされた思いであった。

 唯一の救いは片麻痺でも自動車の運転はできると言うこと聞き、また事実そうしてさまざまな形で行動しているの様子をホームページや書物で知ったことである。
 退院2ヶ月目には車の改造も終わり、直ちに運転の練習に入り、4ヶ月目からはリハビリ通院も自分で行くようになり、発症1年目には鳥取大山まで初のドライブ旅行ができたのである。

 こう言うといとも簡単そうに聞こえるが、内実はそれほどでもなく、今までに事故に結びつきそうなヒヤリハットは3回あった。ただいずれも紙一重で事故にならなかったという幸運に恵まれただけで、いずれにせよ片手片足運転で制御可能な安全運転に徹することが肝要であると思っている。

 発症2年目の昨年、故郷信州まで往復1000キロの旅をしてようやく長時間運転に少し自信が付き、結婚以来40年ぶりに約束を果たす気になってきたのである。

 勿論、最近は旅行会社が選りすぐりのパック旅行を企画しており、障害者のための配慮も十分行き届いていると思われるが、自らが企画し、自らが行動すると言うのが私の旅行に対するこだわりであり、一つの目標でもあったのである。

 今年に入って早速本屋から旅行雑誌や地図を買い込んできて調べ始めたのである。その基本は北海道の原野を自由に走り回りたいと言う私の夢を実現するためにドライブ旅行にしたのである。
 ただこの場合車をどうするかと言う問題がある。私の車は障害者用の改造車であり、レンタカーを借りるわけには行かないので、自分の車を持っていく必要がある。

 幸い私のところからだと舞鶴港に出てフェリーで北海道に渡るコースが選べる。「これだ!」と決めて、後はコースである。おおよそのコースを決めて次が宿泊場所である。
 ところがこれがなかなか大変である。現在はほとんど杖を使わなくても自力歩行できるまでに回復したが、完全なバリアフリーまでは必要ないとしても、風呂とトイレだけは最低限のものは必要である。

 今時和式トイレだけ等という宿はないだろうが、昨年の同級会にはバリアフリーの配慮がまったくなく、同宿者や周りの人にはかなり迷惑をかけた。この点、一般的に言われる公共の宿と言うのは安心である。ただ、場所が限られているため、果たしてコースとうまく結びつくかどうかが問題である。

 更にこれらの施設は人気も高くうまく予約ができるかどうかも問題である。結局、二転三転しながら早々と3月には往復の船便を含めすべての予約が完了した。

 まず初日は小樽港に早朝4時に到着することから1日をフルに使い宗谷岬を目指すことにした。そこから南下して、北海道の大自然を思う存分走り回り、最終日は出港時間と帰着時間を考えて苫小牧発、敦賀着便を利用することにした。

 かくして本日6月19日、午後11時30分万感の思いを込めて40年目の約束を果たすためと、私の再起の旅は舞鶴港を飛び立つ思いでスタートする。(04.06仏法僧)