サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

171.y = ax

 「老いの一徹」という言葉がある。この一徹というのは「思い込んだら、あくまでそれを通そうとすること」という事で、これに老いが付いて歳をとると自説を曲げずに押し通そうとする頑固さと言うことになる。

 考えてみるといつの間にか歳をとり、知らず知らずのうちに頑固ジジイになっているのかも知れない。何も好んで頑固になったわけでもないし、しゃにむに自説を押し通さなければならない程のものを持ち合わせているわけでもない。いうなれば世の中の変化についてゆけないから昔からの考えにしがみついているだけである。

 それにしても最近の世相、驚くことばかりである。衣食住は勿論、取り分け人間関係や社会生活のあらゆる面で、私が子供の頃のあり方がまったく変わってしまった。今更古い道徳観念を振り回そうということではないが、限られた社会の接点ではもう付いて行くことも出来なくなってしまったのかも知れない。

 ところで、表題のy=axとは、ご存知養老孟司さんの「バカの壁」に出てくる「脳内の一次方程式」である。ここでxとは入力される情報であり、aは脳の中の係数「現実の重み」ということで、yは出力、人間の反応ということか、a=0ならば無視であり、a=無限大の場合は、ある情報・心情がその人にとって絶対的でありいわゆる「原理主義」と言うことになるらしい。
 又、aがプラスならy=行動はプラスになる。aがマイナスだったらy=マイナスとなりマイナスの行動となると言う事である。

 すなわち、今の世の中好むと好まざるとに関わらず様々な情報が飛び込んでくるが、歳とともにa=0すなわち無反応になってくる。

 取り分け私の場合、何年か前より徹底して鬱ネタ拒否宣言をしているので、この手の情報には一切耳を貸さないことにしており、その分余計に一徹老人の趣を強くしているのかもしれない。その中にはあのトラ情報も当然入っている。

 ところで、情報というのは常に変化しているものと思っていたが、養老孟司さんによると、情報は常に一定であるそうである。物事の実態を理解する上で、客観的に完全な「公平・客観・中立」などということはありえないものらしい。

 戦後の日本は都市化に伴いその都市に順応していくには大多数に受け入れられる「共通了解」に順応していくことが無意識のうちに求められるらしいが、都市化の流れの中で知らず知らずのうちに長いものに巻かれていったのかもしれない。

 「今の若者はがんじがらめの「共通了解」を求められつつ、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇に有る」ということで、取り分け巨大な経済の流れの中では「組織に入れば徹底的に「共通了解」を求められるが、口では「個性を発揮しろ」と言われているということである。

 結局今の若者は「求められる個性」を発揮しろという矛盾した要求が出されるという難しい立場に立たされているということで、この世に生きていくのも楽なことではない。

 しからば我々の頃は同であったかといえばそれほど差が有ったわけではないが、翻って私のような破天荒な生き方が出来ただけ、多少は個性の発揚が認められていたような気がする。

 ところで、「バカの壁」というのは、「ある種、一元論に起因する面がある。バカにとっては、壁の内側だけが世界で、向こう側が見えない。向こう側が存在しているということすら見えない」という状態らしいが、近頃何かにつけ、この壁の内側に収まる傾向にあるのかもしれない。

 このことは我々老人も同じであり、あえて存在感を示さなくても平均的な好々爺を装っていると、何とか食べていけることにも起因しているのかもしれない。これが年金を現実に減額されて、生存が脅かされる事態にでもなれば、いかに「物分りのよい」老人でも黙って入られなくなり、「現実の重み」係数aを0ではすまないはずである。

 戦後、すべてを失って、そこから刻苦勉励をして「働かなくても食える」社会(家庭)の実現を目指してきたが、皮肉にも、それに近づきたいという結果が「バカの壁」を作ったことになったということである。

 近代化とか合理化というのは人間をいかにして働かなくするかということで、人間は営々として単調な社会を作ってバカに邁進してきたということである。

 養老さんによると、インドでは決して合理化を行わず、本来なら一人でやれることでも、それを敢えて分割して、それぞれの階層に分割しているからカーストという社会制度が維持されているということである。

 日本でもかつて職人制度があった頃はこの分業化制度は生きていたが、近年になって合理化が進む中で、国民それぞれが役割を分担する社会制度がなくなってしまった。それとともに、我々老人の存在理由もなくなってきたのかもしれない。

 その結果、暇になったオジサンはぐったりして、家事という社会的な役割のあるオバサンはすこぶる元気ということらしい。

 最近の調査で、60歳以降、男性は田舎に住むことを希望し、女性は都会に住むことを希望しているということである。これはその役割分担からくることで、家事を分担する女性にとっては便利さのほうを取るわけで、男性のほうは本来農業人であった日本人が都市化の流れに疲弊して、再び自然と向き合う農業人に回帰したいという願望ではないかと勝手に考えている。

 今度のアテネオリンピックでは日本選手が大活躍したが、経済力は別としても日本の国力は明らかに落ちているのではなかろうか。取り分け体力面においてはアジア各国の同世代と比較してもそのことは明らかのようである。
 養老さんもこのことを「意識的世界なんていうのは屁みたいなもので、基本は体である体が駄目では話にならない」と言っておられる。

 そして、人生は家康型で、「遠き道を行くどころか、人生は崖登りである。一歩上がればそれだけ視界が開ける。知的労働というのは、重荷を背負うことである。ものを考えることは楽なことではない」。ところが、近頃「崖を一歩登って見晴らしを良くするというのが動機ではなくなってきて、知ることによって世界の見方が変わるということが分からなくなってきている」と嘆いておられる。

 この歳になって、まだ崖を登る体力(気力)あるかどうか分からないが、もう少し見晴らしがよくなるようa=+αでありたいと思っている。(04.09仏法僧)