サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

85.鬱ネタ拒否宣言

 最近、読売新聞の月曜地方版に「ほのぼの版」というのが出現した。このページでは暗い話は一切扱わないというのである。何年か前に吉本興業が、「不景気ネタ禁止令」と言うのを出した。このいずれも大賛成である。

 日本のメディアではなぜか鬱ネタや不景気ネタでないと関心をもたれないと考えているのだろうかと思うのである。毎日のテレビのワイドショーや週刊誌などの見出しを見てもこの種の内容が実に多い。取り分けワイドショーでは特定個人のスキャンダルを各局が競い合って取り上げるからこの種のものを避けたら見るものがない。

 これに一部の新聞や出版物も加わり一年中鬱ネタの中にうずもれて暮らしているような気がする。それならば何も見なければ良いではないかと思われるが、新聞でも電車でもこの種の広告が否応なしに目に入るから目を塞ぎ耳を塞がない限り飛び込んでくる。

 今度の国会に「メディア法案」が審議されることで、また世の中騒然となっている。「国民の知る権利」とか「報道の自由」を掲げて各種メディアがいっせいに反対ののろ火を上げているが、私は大賛成である。勿論、言論の自由や思想信条の自由などの基本的人権が侵されることには反対であるが、国民の権利を隠れ蓑に何でもやり得のようなメディアの行動は一定の制限があってしかるべきである。

 勿論大部分のメディアは真面目にメディアの使命を果たしているが、一部の俗悪な新聞、週刊誌、テレビなどが問題なのである。取り分けテレビのワイドショー如きはその最たるもので、あの得意然としたスタッフの顔を見ると虫唾が走る。

 戦後アメリカによってもたらされた民主主義で日本人に間違って取り入れられたものに、自由と権利がある。何人も法のもとに自由平等で基本的人権は保障されているということであるが、その背景には他人のそれらを尊重する義務があるはずである。然るに自分の権利ばかり主張する国になってしまったと思っている。

 その結果、日本民族が本来持っていた道徳観がことごとく消えてしまったのである。何故消えたかと言えばその責任はメディアにあると勝手に思っている。勿論学校や家庭教育にもその責任の一端はあるかもしれないが、学術的なものならいざ知らず、世相風俗や道徳のようなものはその根源はメディアによって左右される。メディアというものは意識しようがしまいが世論を形成していくから問題なのである。「病は気から」といい、陰鬱なことを常に耳元でささやかれたら病気になると言う。最近の鬼のような犯罪は誰から教えられたわけではなくメディアによる影響であると思っている。

 この種の報道が定着したのは、民放のあの有名なニュースキャスターによるニュース番組が初めではないかとこれも勝手に思っている。優れた良識のあるキャスターによる場合は良いが、それでもこの種の報道は国民の思考や判断への介入であり、その及ぼす影響を十分に考えるべきである。

 勿論メディアの発達が国民の様々な面で貢献していることは分かるが、今問題になっているのはそんな次元ではなく、もっと低俗なことである。そういうとその選択は個人に任されているからメディアの責任ではないと言う声が聞こえてきそうであるが、これだけ溢れ返っている中では選択の余地がなく飛び込んでくるから問題なのである。

 こう言う話になるとメディアが勧善懲悪に貢献している等と反論するようだが、勧善はさておいて、懲悪の仕方が問題なのである。「一寸の虫にも五分の魂」とか「罪を憎んで人を憎まず」などと言うではないか。今のメディアの取り上げ方は懲悪に結び付けたいがために疑惑の段階でも全てを悪の方向に意識的に導いている。取材活動なども垣間見ると隣近所や友人まで根こそぎ掘り起こして悪い印象を殊更引き出しているようである。話と言うのは言葉の後先を並べ替えることで意味合いは全く変わってくるのである。

 この法案が提起された背景にもなっているのではないかと思うが、かつてN村女史の問題については何ヶ月にも亘り、入れ替わり立ち代り女史の否を暴き出していた。例えそれが否であっても家族の生活もあり、それにもまして人間の尊厳があるのである。芸能人の下ネタ漁りなどどうでもよいが、あの有無を言わせない取材風景を見ているあれはまさしく暴力である。

 これ以外にも最近の政治家のスキャンダルについても何故ここまで執拗に追求しなければならないのかと言う疑問をいつも感じる。勿論政治家たるもの私益よりも国益を優先すべきことは当然であるが、何が私益で、何が国益であるか歴然と分かれるものだけではない。最近の政治家の場合も、自分の信念で、国益に沿って真剣に努力されたことも多くあるはずである。然るに最近のメディアの取り上げ方は極悪非道の大悪人のような取り上げ方で取材の公平さなど微塵も感じられない。

 最近の歴代宰相ですら、メディアの攻撃に会わなかった宰相は居ない。人間性を否定し、政治を否定し、更には企業をも否定する中で、一体日本のメディアは世論をどのように導こうとしているのか、その先には何も見えてこない。

 公平さの守れないメディアなど一種のファッショであり、そうすることが「国民の知る権利」を守るメディアの使命なんてことはメディアの思い上がりも甚だしく、寧ろ「メディアによるリンチ」である。いささか問題が無しとはいえないまでも、日本は世界に冠たる法治国家であり、悪を追及するのにメディアの力を借りなければならないほどの国ではないと思っている(ちゃうかな?)。

 しかもこの種の報道が文字通りの正義に基づくものであるなら良いが、商業主義による取材合戦から来ていると言うなら余計に腹が立つ。こうなったら向こうが商業主義というのであるならこちらは乗らなければ良いわけで、今後一切鬱ネタは拒否することにした。今、阪急電車等はこうした低俗な週刊誌の吊り下げ広告を排除しているが、これだけで社内の雰囲気は和むものである。

 いささか分不相応な話で、時代の波に遅れそうな気もするが、これだけ八つ当たりをすると気分だけはすっきりする。これも不機嫌老人症候群の徴候と言われそうである。(02.05仏法僧)