サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

58.心の薄皮

 人間年をとるに従って頑固になり、気が短くなるという。正直言って自分自身でもそう思うのである。なぜこうなるかといえば老いの一徹という言葉もあり、老い先も短くなりあせりも出てくるからかもしれないが、そればかりではないようだ。なんとなく心の柔軟性がなくなってきたような気がするが、しからば心の柔軟性というのは何なのかといえばこれが定かでない。

 ゆとりがなくなったのかと言えばそうでもない。今時の年寄り全てが全てではないにしても大方は子育て真っ最中の働き盛りよりは豊でなくとも、ゆとりだけはあるような気がする。なのにこの頑固さと気短さは一体どこから来るのだろうと、暇が出たついでに考えてみた。

 そもそも頑固とは辞書で調べると「人の言うことや情勢の変化などを無視して、それまでの考えや態度を守ろうとすること」ということらしいが、であるなら今更始まってことではないことになる。年をとるとそれに輪をかけて頑固になった、即ち頑固一徹で他説を受け入れる余裕がなくなったことかといえば実感として、それほどではないような気がする。ただ言えることは他説を取り入れるだけの瞬時の柔軟性はなくなったような気がする。

 なにも頑固一徹に何も受け入れないということではない。直ちに反応できないのである。話せば分かるのであるが、間髪をいれずに次から次に矢継ぎ早に主張されるとついていけず、おのずから自説の中に閉じこもってしまうような気がする。

 世の中にはこのタイプの人間がいて、話す端から押し返すのである。言うならば水際でたたくタイプである。この種の人間には年をとるに従ってついていけなくなった。あの漫才の大助・花子の大助さんタイプである。カミさんに機関銃のようにまくし立てられると最後は「うううっ・・・」となってしまうのである。
 こうなると自分がもどかしくなって「喧しいっ!」と怒鳴り返すことになり、後は頑として聞き入れなくなるのである。

 かつて若かりし頃はこうした状況でも即座に反応し、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うで際限なく激論を戦わせたものであるが、いつのまにか自分の心の中にとじこもるようになったのである。
 かつてテレビで見たが今話題の長野県知事は典型的な水際主張はであり、あの理屈好きな信州人がさぞや戸惑っているのかもしれない。

 そもそも人の心というのは多様に変化するものであるが、その周りを卵の殻のようなもので覆われているような気がする。勿論生まれたときは誰でも剥き出しの心であったと思っている。それが成長するにつれて薄皮ができ、知恵がつくに従ってその薄皮が厚くなり、更に心と表皮の間に緩衝材ができてそれが心を守ることによって心の痛みを和らげているのではないかと勝手に思っている。その表皮というのが感情表現であり、心に映じたものをそのまま感情に表さないようにして、世の中での順応性を保っているのではないかと思うのである。

 なぜなら生まれたばかりの赤ちゃんというのは決して計算ずくで泣いているのではない。何らかの心の痛みの意思表示であり、心の中に感じたものそのもということになる。その後成長し、知恵がつくにしたがい、徐々に本心をさらけ出さなくなるのである。

 ところが還暦を過ぎて、徐々にこの心を覆っていた表皮が薄くなっていくような気がする。即ち心が剥き出しになるのである。そうすると当然のことながら外からの刺激を受けやすくなり、刺激を受けるからその防御処置として自説に閉じこもり、限界を過ぎると怒り出すのではないかとこれも勝手に思っている。

 ただこのことは悲しむべきことではなく、寧ろ喜ぶべき現象であると考えるべきである。人間生まれながらにして菩薩の心をもっているというではないか、人はすべからく善良な行いをするために生まれてきているのである。ただその後の生い立ちの中で様々な煩悩にまみれて人間の本質が見えなくなっているだけであるのである。これが年をとるに従って取り除かれ剥き出しの心になって行くということになる。

 従っていささか手前味噌ではあるが、老人の頑固さや気短さはその人の本心が現れたもので、人を欺いたり、その場を繕ったりするものではない。もっとも全てがそうしたものではない場合があるが、これはいささか悟りが遅いということになる。
 
 もっともこの心を覆っている殻が薄皮になるにしたがい、いささか身の薄ら寒さを感じるのも事実である。その寒さをしのぐのには勲章か何らかの社会的な地位が欲しくなって来るのかもしれないが、あまりそうしたものに縁もなければ執着心もない。以前誰かが言っていた言葉であるが、「人は若いときは自分を作るために、中年を過ぎたら家庭のために、歳をとったら社会のために働け」と言うことであるが、こと志どおりにはなかなか行かないものである。
 それにしてもいささか心の柔軟性を失い、心の薄皮をひしひしと感じる昨今であったのである。(01.04仏法僧)