サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

128.美味いもん

 最近、酒の安売りショップであの憧れのホワイトホースが、千円割る値段で売られているのをみた。ホワイとホースばかりではない、かつてはスコッチウイスキーの定番とも言われたジョニーウォーカーもほぼ同じような値段で売られていた。

 もうかれこれ40数年前になるだろうか。酒を飲むことを覚え始めた生意気盛りの頃、巷にバーと言う飲み屋が雲霞のように広がっていった時期がある。この頃のバーといえばトリス、キング、オーシャン、ニッカなど国産ウイスキーのブランド名を頭にかぶせた名前の店が殆どで、「トリスバー○○」というように呼ばれていたのである。

 この頃はまだ酒の味もわからずに、言うなれば大人の仲間入りをしたような気分で思いっきり背伸びをしていたのであるが、この頃でも「サントリーバー」と名前が付けば、高級と言うことを意味し、薄給の若造が入るところではないと思っていた。

 勿論スコッチウイスキーなどは薬にしたくとも口に入るものではなく、たまに会社のお偉いさんが何かの折に持ってきたものを、みんなでほんの一口ずつを押し頂くように舐め回したものである。
 今は店の片隅に、雑貨のように置かれたかつての憧れのスコッチをみるにつけ、時代の変遷をしみじみと感じるとともに、当時の有り難味も消えてしまった。

 考えてみると、最近、心底「美味いもん」というものにお目にかかったことがない。勿論、今の経済情勢や年金生活者の身分で、銭に糸目をつけない食事なんて事はたやすい相談ではないが、私のささやかではあるが、過去にはいわゆる接待と言う特殊な世界の中で、一流と言われるの料理人や、一流の料亭での会席がなかったわけではない。だからといって、それが生涯忘れ難いほどのもので、もう一度食べてみたいなどと記憶に残ったものなど何もない。

 私が物心ついて、こんな「美味いもん」と最初に思ったものはアイスキャンデーである。試験管のような容器に割り箸を1本入れて凍らせたあれである。
 夏になると麦藁帽子をかぶったおっちゃんが、ブルーと白に塗り分けた木製のアイスボックスに、小さな旗をはためかしながら売りに来るのである。遠くからチリン、チリン、とベルの音が聞こえると、渋る母親にねだって家族の分も含めて、お皿をもって待っているのである。

 当時は今のように、果汁やミルク、更にはチョコレートなどの入った豪華なものではなく、単に砂糖水に人工香料、人工着色されたもので、今の食品衛生法に適うかどうか分からない代物だったが、その美味さは格別だった。

 食べ終わった後も、割り箸に染み込んだ甘味を噛み締めるようにしてしゃぶるのである。このことは、あの阿久悠さんが「瀬戸内野球少年団」と言う本でも書いているので、私だけでもなかったらしい。

 今の時代は、子供が離乳したら、その時から外食するというのが当たり前のようになっているが、私の子供の頃には、生れて始めて外食したというのは、高校生になってからである。
 未だに忘れない味といえば、部活のあとにあの島崎藤村ゆかりの「揚げ羽屋」で食べた「支那そば(ラーメン)」は世の中でこれほど「美味いもん」はないと思ったのである。取分け「揚げ羽屋」の「支那そば」が美味かったわけではなかったかもしれないが、日頃、味噌と醤油だけの素朴な味付けに慣れた口には、いわゆる店屋物のプロの味付けと言うのは新鮮な驚きであったのかもしれない。

 我々の子供の頃、「健康のために良質の蛋白質を採る」などといわれたが、この良質の蛋白質というのはいわゆる肉料理であり、何時の日にか欧米並みの肉料理が食べられることが国民すべての夢でもあった。
 当時の肉料理といえば、せいぜい家で飼っていたウサギの肉で、毛皮商人が、毛皮を買って肉を置いて行くのであるが、肉の美味しさよりも、可愛がっていたウサギを失うことの悲しみのほうが大きかったような気がする。

 実社会に出た頃も、まだそれほど食糧事情はよくもなく、専ら独身寮での給食で、良く出されたものといえば鯨肉である。今では珍味として扱われているが、土の塊のような鯨の立田煮がお皿にゴロッと載っているのを見ただけで食欲がなくなった。

 初めてビーフステーキを食べたのも独身寮時代で、そろそろ古参となった頃である。ようやく、市場にも肉類が出回り始めた頃で、仲間達と、ステーキ用の肉を買って来て、無謀にも山登り用のコンロを使って自室でステーキを焼いて食べたのである。その美味さたるや、何ものにも例えがたく、考えてみるとこの頃から私の生活習慣病が始まったのかもしれない。

 また、「うなぎ」を食べたのも多分結婚して大分経ってからでななかったろうか。これなども「美味いもん」の代表であったが、海老を使った料理は未だに「美味いもん」という固定観念をもっている。
 「握り寿司」を始めて食べたのも、実社会にはいってから、先輩に連れられて食べたのが最初である。ただ、寿司ネタというのは今の時代より豊富で、今ほどの感激があったわけではない。

 今でも寿司ネタのウニやあわびは「美味いもん」の代表と考えているが、私が最初にこれらを食べたのも、独身時代に仲間と三陸海岸に旅行をした時である。丁度、海岸でキャンプをした日がウニの解禁日で、地元の漁師にボール一杯のウニと、あわびを貰ったのであるが、磯臭いウニはどうしても食べられなかった。

 こうして考えてみると、私の食体験はかなり貧弱なものかもしれないが、あんな「美味いもん」と言う記憶があるだけでも幸せである。今の時代、これらのどれを採っても何所のスーパーでも手にはいるもので、それだけ今の若者は感動のない食生活をおくっていると思うと気の毒である。

 勿論、その分、今は何所の国の料理も食べられるが、食とは食文化と言われ、その国の民族の歴史の中で、最もその民族に合った物として語り伝えられてきたものである。結局、「美味いもん」とはその土地、土地で食べる郷土料理ということになるのかもしれない。

 最近、孫達と時々100円寿司と言うのに出かけるが、値段の割に「美味いもん」と思っている。ただ、日本人は、穀類を主食とする民族で、歯ざわりとか喉越しなど食感を大切にしてきたが、ドロドロとか、ネチャネチャと言ったものには、生理的な不快感をもっている。

 それにしても、最近の食べ物を見るにつけ、いわゆるミスマッチと言う得体の知れない食べ物がやたらと目に付くが、こうした日本人の食文化の変質が日本人の意識まで変質させてしまったのではなかろうかと勝手に思うのである。(03.07仏法僧)