サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

46.つまらない男達

 最近の男たちはつまらなくなった。これは何も日本だけではなく世界全体かもしれないが、外国のことは分からないからどうでもよい。とにかく日本の男たちがつまらなくなったのである。もちろんこの中に自分が入っていないなどとおこがましいことを言っているのではない。

 どのようにつまらなくなったかといえばロマンがないのである。かつてはいつの時代でもスポーツ界に、経済界に、そして政界や芸能界においてもロマンを掻き立てる男がおったのである。
 今の時代のように先に何の目標ももてない時代にロマンを持てといっても無理かもしれないが、夢のない時代であるからこそロマンを持ちたいのである。
 人間の才能にはテクノロジーをつかさどる左脳と情緒をつかさどる右脳があることは前にもたびたび触れたところである。男の場合は左脳による思考が主体であり、女の場合は右脳による思考が主体であるといわれている。ただ、女の場合は左脳と右脳の両方で思考することができるといわれている。
 ところが最近の日本人の男はこの右脳による情緒的な思考が全く欠けているのではないかと思っている。
 かつて、日本が未だ神々に時代であったとき、天照大神が世の中の混乱を嘆いて天岩戸に隠れて世の中が真っ暗になったころは未だ女性が世の中を支配していたのである。その後、世の中の争いとそれに伴う科学技術の発展が男社会を作ることになったのであるが、特に中世以降の科学技術の発展は目覚しく、とりわけここ百年の間のそれは驚異的な発展であったのである。そしてこの科学技術の発展がもたらしたのは男社会であったのである。
 この間の科学技術の発展には是非は別にしてその前提にロマンがあった。その発展が人類に幸福をもたらすものと考えられていたのである。ところが最近、こうした科学技術の発展は行き着くところまで行き着いたような感じであり、経済性や便利さだけを追い求めているようになった。それと同時に男が方向を見失ってしまったのではないかと勝手に考えている。
 昨年ある中学校の吹奏楽部の発表会を聴く機会があった。ここで驚いたのは40人程度で構成しているそのブラバンのなかで男の子はたったの二人であった。我々の頃はそんな豪華な楽器を手にできる時代ではなかったので論外であるが、娘の中学時代でもトランペット等の管楽器やドラム等は男子生徒が担当しており、トランペットソロなどうっとりとして聞きほれた記憶がある。
 それが僅かティンパニーの一瞬の「演奏」を担当する男子生徒がたったの二人であったのである。この学校だけの特色かと思って聞いてみるとどこの学校でも似たり寄ったりであるらしい。
 我々の頃もコーラス部などは圧倒的に女子が多く、その中に入る男子生徒は軟弱者と見られる傾向がなくはなかった。それでも二人ということはなかったし、このことはブラバンに限ったことではない。およそ情緒によるものは絵でも演芸でも全て同じ傾向であるらしい。
 これは若者だけではなく、我々中高年にいたっても同じである。各地で開かれる展覧会などでも出品者は圧倒的に女性が多い。これ以外でも音楽会、ダンスパーティー、歌会、茶会等々女性が活躍している場は限りがない。
 男にはそんな暇がないといえばそれまでだが、それならば女性は暇かといえばそんなことはない。ことさら女性の肩を持つわけではないが、男には心のゆとりがないのだけである。いわゆる己の生活の中で情緒的な思考を持ち合わせていないだけである。
 加えて、最近の日本人男性の犯罪が残虐になった。やりきれない思いがするのである。かつて、全日本クラスのラグビー選手の友人から「モール(密集)状態のなかで外国選手は倒れている選手の顔でも頭でも平気で踏みつけていく」という話しを聞いたことがある。日本人にはそれができないということであった。それは戦いの場であっても無抵抗のものへの一瞬の労わりの精神が日本人にはあったのである。
 勝敗だけが全てであるスポーツの世界ではあるいは無意味なことであったかもしれないが、それが日本人の血に受け継がれた武士道の精神であり、生命の尊厳に対する感じ方と思っている。同じような話は随所にあり、子供の頃の教科書にもディヴィスカップで倒れた相手の選手をかばったために敗れた清水選手の話など何年経っても忘れない話である。
 ところが最近は「親父狩り」とか「ホームレス」を襲撃するなどまったくの弱者を一方的に加害する事件が続発している。私の子供の頃も手のつけられない「悪ガキ」であったが、それでも無抵抗の弱者を一方的にいじめるようなことはなかったと思っている。そうすることに対する何とも言いようもない生理的な不快感があったのである。
 なぜ今の日本人がこのように変質したのかと言えば、情緒的な躾の欠如意外何ものでもないと思っている。適性でも得意でもない理数教育だけを重点とし、右脳で考える情操教育を無視した結果だと思っている。これは受け入れる側の社会側にも問題がある。理系であれば猫も杓子でも頭がよいと考える風潮があり、適性をまったく考えておらず、更に文系をことさら忌避する風潮が二十年以上も続いていることである。
 人間というのは多様なもので、頭がよいと思われるものだけを集めればよい結果が得られるというものではない。多様なものが交じり合うことによってバランスの取れた社会が生まれてくるのである。
 人はテクノ思考だけでは面白くとも何ともない。テクノ思考に情緒思考が加わって能力は輝きを増し、人間性豊な人格が形成されるものである。
 あの「金満球団」のN嶋監督を見るがよい。もって生まれた野球というスポーツの天分だけではただそれだけの人である。ところに「並外れた」情緒、即ちロマンを持った人だけに類まれな好漢「N嶋」像があるのである。我が「タイガース」なども「N村の考え」などという野球理論ではなく、選手の心を燃え立たせるロマンを感じさせるほうが先決ではないかと思っている。もっとも余計のことかもしれないが、N嶋監督のご子息は野球の天分より情緒的天分の方が数等勝っていたのるようである。(00.12仏法僧)