サイバー老人ホーム

340.歳相応

 毎年、町内の神社に何がしかの寄進をすると、代わりに「好日暦」というのをくれる。内容は「二十八宿」だとか、「六十干支」とか、「九星」、「二十四節気」など様々なことが書かれているが、不敬ながら自分の生まれた年月以外は細部にわたって読んだことはない。

 ただ、これは人に聞いたことだが、人間というのは、一つの節目を超えると次の節目までは無難に生き延びるそうである。もっとも、この節目というのは生まれたばかりの子供の場合は、次の節目は還暦であり、成長してからは、厄年というのが次の節目になるそうである。

 ただ、この厄年というのは、一番よく知られているのが男では四十二歳の本厄であるが、早いのは七歳から厄年は始まり、最も高齢では百五歳というのもあるらしい。

 一方、これ以外に生まれた年により様々な祝日がある。調べてみると、一番早いので「立年」といい、これは孔子の論語の一説に「子の曰く、吾れ 十有五にして学に志す。 三十にして 立つ」というところから取っているらしいが、後に続く四十の「不惑」までは分かるような気もするが、四十八の「桑年」、五十の「艾(もん)年(ねん)」となると、どうやら商業主義の御都合で適当に祭り上げられたような気がしないでもない。

 この後は、「還暦(六十)」、「古希(七十)」、「喜寿(七十七)」、「傘寿(八十)」、「米寿(八十八)」、「卒寿(九十)」、「白寿(九十九)」、「茶寿(百八)」と続くらしいが、古希まではわたるような気もするが、その他はいずれも漢字の当てこすりのような気もする。

 取り分け「茶寿」となると、「茶」という字の草冠を二十とみて、次の山冠を八、さらにその中のホを十八として合わせて百八としたらしいが、ここまで生き延びる人も滅多にいないであろうが、「目出度さも」中くらいを通り過ぎるきらいがないでもない。

 私は今年、喜寿を迎えたことになり、これを超すと次の傘寿であり、ここまで来ると「目出度さも 中くらいなり おらが春」を超えたことになりそうである。

 ただ、残りの慶寿も少なくなったようだが、今年で一つの節目を超えたのは間違いないわけで、そうすると次の節目までは比較的平穏に過ごせると誰かに聞いたような気がする。

 もっとも、この年になって生への執着がわいたかといえば、そんなことはない。いずれにせよ、神様の示す時期まで生きられればそれで充分である。ただ、その時期まで生きる意欲と、人に迷惑をかけない努力は続けていかなければなるまい。とりわけ、その途中で家族を巻き込んだ終わり方だけはどうしても避けたいものだと考えている。

 今年の三月から、新聞を読売から朝日に変えたが、先日の「天声人語」に面白いことが書かれていた。「人間は、いつだって不可能かもしれないことを越えてきた。高齢には三つのタイプがあり、一つはまだ若々しい人であり、二つ目は昔は若かった人であり、三つめは一度も若かったことのない人である」という事である。

 これと、同じような話で、ドイツ生まれのアメリカの詩人サミュエル・ウルマンの「青春の詩」に次のように書かれている。

 「青春とは、人生の或る期間を云うのではなく、心の様相を云うのである。優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ=ひるむ)を却(か)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心、こういう様相を青春という。年を重ねただけでは人は老いない。理想を失う時に初めて老いが来る。苦悶や、狐疑、不安、失望、恐怖、こういうのこそ恰も長年月の如く人を老いさせ、精気ある魂を芥に帰せしめてしまう」

 ここまでの勇猛心を持った人はどれほどいるか分からないが、今度、ヒマラヤを八十歳という高齢で登られた三浦雄一郎さんなどはその典型であろう。何かに、「この登山には莫大な費用が掛かった」のようなことが書かれていたが、まさに、下司の勘繰りである。
 三浦雄一郎さんの八十という年齢が、どういうものか考えた事も無いのだろう。三浦雄一郎さんが、昔から著名なスポーツマンであり、今までにも何回かヒマラヤをはじめ、世界の屋根に挑戦してきたことはだれでも知っているだろう。だからと言って、八十歳の高齢で世界最高峰のヒマラヤを征服するなどという事を百パーセント達成できると考えた人がどれほど居ろうか。

 これについて、六月十日のNHKクローズアップ現代で、「驚異の八十歳三浦雄一郎初公開若さの秘密」で放映された。勿論、三浦雄一郎さんが以前から体に重い重石を付けて、日々お住いの周りを徘徊して鍛えて居ることはマスコミを通じて知っていた。だからと言って、これでエベレストに登る体力がつくとは全く思わなかった。

 高齢化とは、そうしたもので、たとえどれほど自分が望んでも思い通りにならないのが極く当たり前のことである。ところが、クローズアップ現代で、「人間は、キラキラした目標を掲げて行動した時、不可能も可能になる」と言われたのである。即ち、ウルマンの詩の内容そのものである。

 かつて、太平洋戦争でもそうであったように、戦争の無意味さと、悲惨さはだれでも知っているが、当時の日本人は一億総勢、日本が負けるなどとは思っていなかった。キラキラした目標を掲げ、必ず勝つと思っていた。結果は悲惨な結果に終わったが、その余った情熱が、高度経済成長を呼び込み、世界に冠たる経済国家を作り上げたのである。

 それはさておき、然らばお前はどうなんだと自問してみると、まず「一度も若かったことのない人」では絶対にない。次に「昔は若かった人」でもない。勿論、若気の至りは大型トラック一台分もあるが、だからと言ってこれによってくじけた事も無い。

 考えてみると、私の一生は常に挑戦をし続けて、のんべんだらりと時間空費したことはなかったような気がする。それならばどれほどの実績を残したかといわれると、それが弱いところで何もない。即ち人から認められるようなことは何もなかったという事である。
 その事をとりわけ僻むわけではないが、何故か私の周りに常にそう云う雰囲気が立ち込めていた。これも私の人徳の至らしむところだろうと思っている。

 ただ、たった今を考えても、サミュエル・ウルマンの云う「優れた創造力、逞しき意志、燃ゆる情熱、怯懦(きょうだ)(ひるむ)を却(か)ける勇猛心、安易を振り捨てる冒険心」はいささかも衰えていない。ただ、それが優れているか、逞しいか、燃えているか等のウルマンの云う程度が合致しているかどうかは分からないが、この歳になって、出世したか、富を築いたか等が生きている証と考えている人はそれほどあるまい。

 先月になって、この地区にコミニュティバスを走らそうという話し合いに呼び出された。この話、五年ほど前に、私がこの町の自治会長を引き受けたとき、一人の老人からの提案が発端で行政を巻き込んで進めた話である。その後、後を継いだ自治会長の不条理な扱いにより空中分解してしまったが、最近になって、この地域の五つの街が再度取り上げて今に至っていて、その合同協議会に召し出されたである。

 過去二年かの検討結果を読ませてもらい、私が取り組んでいたことに誤りはなかった事を改めて知り、喜んで参画させてもらうことにした。

 それにしても、私の人生で常に付きまとっていた理不尽さがようやく晴れて、今度こそ、この地域の住民の福祉に役立つために残りの人生のすべてを投入し、ウルマンの云う歳相応の青春を謳歌し続けていきたいと思っている。(13.07.15仏法僧)