サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

17.愛しのタイガース

 今年もいよいよプロ野球の開幕である。そこで我が「愛しのタイガース」はどうかといえば、今年に限ってはまったく期待していないのである。それではなにも今年に限ったことではないではないかといえば実はそうではない。毎年シーズンの終わる頃になるとどん底に落ち込み、もう来年からは応援などするものかと心に決めるのである。

 ところがストーブリーグが過ぎる頃から再び心変わりをし始め、春季キャンプに入り、オープン戦も終わる頃になると例年どおり、今年こそはと思い始めるのである。そしてシーズンが始まり、5月も終わり梅雨に入る頃になるとそろそろ心も梅雨になり、オールスターの頃には完全にあきらめの心境になるのである。これが毎年のパターンであるが、今年は違うのである。どう違うかといえばはじめから期待するものがまったくないのである。

 それだったら見限ったのかといえばそうではない。阪神ファンの心境というのは宝くじを買った人の気持ちと同じである。はじめから1等や2等などに当たるなどとは思っていない。3等も先ず無理である。あわよくば4等かせめて下から2番目くらいが当たれば上出来と思っている。だからといって初めからそれで良いと思っているわけでもない。他人には「当たりはしないよ」などと平生を装っているが、内心は密かに「もしかしたら・・・」などと期待しているのである。いわゆる死んだ振りをしているのである。

 そもそも我が「愛しのタイガース」との付き合いは、プロ野球の歴史と,私の記憶を照合すると昭和22年からになり、今年で53年目ということになる。私の人生で、飯を食う意外にこれほど長く続いているものは他にはない。いわば私の人格そのものになる。その間に歓喜の雄叫びを上げたのがたったの3回というのだから如何に弱い星の下に生まれてきたが分かろうというものだ。

 このタイガースというチームは一体何なのかというと、これは演歌の世界である。「逆境に虐げられながら懸命に生きる可憐な女性」の姿そのものである。いわば、吉永小百合さんか、宮崎美子さんのような女性が5人の荒くれ男に痛めつけられている姿である。特にそのうちの一人の金に糸目をつけない大男が力任せに蹂躙としようとしているのである。

 これを見て黙っているようでは男が立たない(女も立たない)。弱きを助け強きをくじく任侠の世界の中に我々トラキチは生きているのである。見るがいい、球界一の安い報酬の中でありもしない才能で懸命に頑張っている姿を、あれを見たら誰でもいじらしいと感じないほうがおかしい。

 ちなみに同じ在阪球団でも近鉄バッファローズは同じ演歌でも坂田三吉か、桂春団治である。「そら、勝たんかい、負けたらあかんで」というが、負けたら「あかん」と簡単に諦めてしまう。またオリックスブルーウエーブは演歌ではなく、ジャズか室内楽であり、少し大阪の肌合いとは違うようである。勝ち負けよりムードがあればよいのである。ついでながら今はダイエーに変わった南海ホークスは老舗大店の「丁稚ドン」のチームである。勝てば「えげつないことしたらあかん」と叱られ、負ければ「止めときまひょ」と算盤勘定であっさり福岡に身売りされてしまったのである。

 しからば何故我が「愛しのタイガース」が勝てないかといえば、簡単である。もともとの能力がないのである。その証拠には我が「愛しのタイガース」からFA宣言して移った選手はいない。選手が自分の力を一番良く知っているのである。加えて、そのことを知ってか知らずか、我々トラキチの深情けが大きく原因している。選手の実力以上に持ち上げるのは深情けというものである。

 見るがいい、あの甲子園に限らず全国どこへいっても変わらないトラキチの熱狂振り、これは深情けでなくてなんと云おう。この中で選手に平常心を持って試合に集中しろといっても無理な話である。そんなことが出来るのは何処ぞの高僧をもってしても不可能である。
 それが証拠にはFAなどで移籍してきた選手もタイガースに入ると、その重圧で途端に実力が発揮されない。一方タイガースから出て行った選手は例外なく大活躍し、痛い目に合わされている。

 そこで今年のタイガースであるが、オープン戦の戦績を見るまでもなく、どこかの新聞の戦力評価で、6項目のうち、4項目は最低である。残り2項目も中の評価であるから良いわけではなく、他11球団と比較すると格段の開きがある。簡単にいえば期待するものが何もないのである。

 しからば、今年は応援しないのかといえばとんでもない話である。今年期待するのは前人未到の100敗を如何に達成するかにある。確か阿久悠さんの小説にそんなのがあったような気がする。何処ぞのチームではないが、他所が育てた一流選手ばかりを集めて、何も勝てばよいというだけのものではない。如何に華麗に負けるかというのも立派な美学である。いうなれば「咲くも花、散るも花」の心境である。そういって死んだ振りをしているしかしょうがないみたいだ。(00.3仏法僧)