サイバー老人ホーム-青葉台熟年物語

32.男の手料理

 以前、定年後の生活についてNHKの特集番組で24等分した円盤を示し、「ここに定年後の1日の予定を書き込んでください」というのがあった。 これに対し、参加した人(男性)の大部分が、朝、昼、晩の食事時間3本の予定線は直ちに書き込まれたが、残された20時間以上の予定が殆ど空白だったのである。

 これを見てふと私の場合は何処まで埋められるか考えてみた。趣味らしいものは多少は有るが、日常生活の中で何処まで経常的に続けられるものとなるといささか自信がない。

 これが1,2ヶ月であるならごまかしも出来るが、未来永劫とまでは云わないまでも死を迎える間際までとなると、食うことと雪隠(せっちん=トイレ)以外は自信をもって続けられるものはない。

 そこで我が老妻の日常をつぶさに観察すると、3度3度の食事に意外と時間をかけていることに気がついたのである。生き残るのはこれだと遅まきながら気がつき、梅田(大阪駅周辺)の料理教室に通い始めたのが定年2年前からである。
 ただ、その前に伏線があるのである。料理人を目指す人は先ず皿洗いからと言うではないか。私の場合も食後の皿洗いから手がけることにしたのである。これは以外に賢明な手順であったのである。少なくとも「男がお勝手に立つ」事の抵抗感がなくなったのである。

 男だけのクラスもあったが、私の参加したクラスは私一人を除いて全員がうら若い女性だけで、初めは好奇の眼差しで注目されたのであるが、これほど若い女性に注目されながら過ごしたのは生まれて初めてである。

 料理教室といっても月に1度だけのもので、それほど大げさなものではない。されど、「何だその程度のものか」と馬鹿にされては困る。1回に挑戦する料理が3ないし4品目で、年間にしてみると40品目以上になるのである。

 この中にはご飯の炊き方から、味噌汁の作り方も入っている。これは私の趣味の一つである山登りの際の食事準備に大いに役立ったものの一つであるが、これだけでも料理の奥深さと言うものは並大抵なものではない。

 そもそも料理と言うものは、と言えばいささか道場六三郎さんになったみたいな気もするが、基本的には生、焼く、煮るの三つの方法がある。そのいずれをとっても素材の新鮮さが第一である。

 次が味加減と火加減である。ところがこの味加減と言うのはかなりアバウトで、いわゆる厳密に大さじ1杯程度のものではない。味には甘い、辛い、塩っぱい、酢っぱい、苦いがあり、これ以外にはないのである。えぐい(えごい)と言う味があるが、これは味と言うより臭覚によるものと考えている。香ばしいというのも当然のことながら、臭覚との関係にあると思っている。

 ただ、味と言うのは臭覚と密接に関係しあっていて、臭覚があるから食物の持つ固有の風味というのがあるのであって、もしこれがなければ、アマ、カラ、ショッパイの基本的な味覚以外にはないと思っている。よく隠し味などと気取った言い方をするが、もともとはかすかな芳香を感じさせることにより、独特の味あいを感じさせるものであると思っている。

 したがって、道場六三郎さんのようなプロの味は別として、我々素人の味は甘すぎても一味、辛すぎても一味であり、余り気にしないのが「男の手料理」の鉄則だと思っている。我々男社会でやってきた仕事同様味付けなどはかなり大雑把なものと考えたほうが取り組みやすいのかもしれない。

 問題は火加減である。この火加減が難しい。特に焼き物や揚げ物の火加減が旨く出来れば道場六三郎さんである。そもそもガスコンロの火口の温度は600度程度のものではないかと思う(定かではない)。この高温を実際の調理温度としては130度から250度程度で使うのだから調整の巾が大きすぎて難しくなるのである。

 ところが、最近、この温度を調整するのに最も優れた利器を発見したのである。ガスオーブンである。何だそんな物かと言うなかれ。このガスオーブンと言うのはアバウトな調理器具の中で、もっとも工学的に管理された器具である。このオーブンと言うもの以前はせいぜい焼き芋焼くのに使っていた程度である。

 以前に買ったオーブンもその効用を発揮しないうちに処分された。現在はシステムキッチンとやらに組み込まれているから否応無しに使わなくてはならない。これを焼き物や煮物に使うと実に美味しく出来上がり、「道場六三郎さん裸足で・・」の感がしないでもない。

 要は「男の手料理」なんてものは味などどうでも良いのである。材料だけを吟味して、素材の味を損なわない程度に適当に味付けして、オーブンに入れれば出来上がり。後はどこかにいる料理人のように威張りくさって押し付けがましくしていれば良いのである。さすれば、仕方なく食わされたほうが有り難がるのである。もっとも、おだてが無いわけでもないが・・・。(00.7仏法僧)