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235.「天保凶作一件穀物萬覚え帳」7

 「覚え帳」の中に、「夫食米拝借証文の事」と言う記載がある。これによると、村は総量六石の米を酉年(天保八年)より向こう五年賦で御影代官所より拝借し、次のような拝借証文を提出している。

 「右は去る申年、凶作に付き米穀払底し買入れ難出来(しゅったい)、夫食差し支え候に付き、拝借願い奉り候処、御取調べお伺いの上、諏訪伊勢守様高島城詰御用米の内、書面の穀数拝借仰せ付けられ候趣を以って、先達って中、お渡し下だされ、請け取り奉り、飢人どもえ夫々割り渡し申し候。

 且つ返納の儀は前書御割合の通り正米(現米)俵入りなど御改め、請け年の十一月中御触れ日限遅滞なく返上納め仕るべく旨御渡され、一同畏まって承知奉り候。拝借証文差上げ申す処、依って件の如し。

 天保八酉年五月、当御代官所信州佐久郡鎰掛村、小前惣代、百姓代、与頭、名主
御影代官所大原左近様」

 この時の御救い米は、諏訪高島藩三万石の御用米だったと言うことである。

 ちなみに諏訪高島藩は、この当時八代目藩主諏訪忠恕(すわ ただみち)の治世である。藩政においては藩財政再建を目指して検地や諏訪湖の治水工事、養蚕業の奨励における産業発展などを行なっていずれも成功したのだが、治世中における連年の凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化したといわれている。

 私のふるさとが、取り分け諏訪高島藩の知行地ではなかったが、当時幕府は各藩に対して、御救い米の供出を指示していたのだろう。

 佐久市上平尾(信越道佐久インター近く)に、「天保七申年凶作飢饉記」と言うのが残っており、それによると、「御影御陣屋御代官大原左近様、御手代元締め大羽建八様、同荻野広助様の御手配で、諏訪から米穀を呼び寄せ、松本から米穀を買い上げて酉の正月を迎える」と書かれていて、代官所も必死に米を買い集めていた事がうかがえる。
 なお夫食とは、百姓が自ら食べる食料である。

 更に村は、同じ五月に、「種籾代拝借」を代官所に申請して、「金四両と永五十三文」、但しこれには三割利金が付き、その分一両と永二百十六文、合計「金五両壱分と永二百六十九文」を拝借し、向こう五年間で、「一両と永五十三文八分八厘宛」均等に返納する事になっている。

 ただ、利金三割とはいかにも割高で、当時の幕府が認める公定利子は、二十五両に月一分と言うのが標準とされていた。月一分は年三両、従って二十五両に対しては一割二分となり、一般的に利息はこのような表示になっていた。

 また、返金に、文以下の分、厘などと書かれているが、当時は勿論、文以下の通貨は無く、厳密に計算した数字を示したのだろうが、これを実際にどのように清算したかはわからない。

 申請に当たって、「右は申年凶作に付き、種籾代拝借願い奉り候処、御取調べお伺いの上、今般御下知払い渡し書面の通り御渡し成し下され奉り、請け取り早々小前え割り渡し申すべく候。

 此の返納の儀、其の三割利金を加え、来る戌(天保九年)より寅(十三年)迄五カ年賦前書割合の通り、年々十一月中御触れ日限、遅滞なく返上納め仕りべく旨、御渡され一同畏まって承知奉り候。依って、拝借書面と証文差上げ申す処、依って件の如し」

 そして、拝借米及び金の分配方法に付き、精細に記載されている。

 まず拝借米については、
「一、米六石、但し四斗入り十五表。内、三石、家別割。此の請け家数四十七軒分。
  但し一軒に付き米六升三合六勺八才、此の家軒分三升一合八勺」
 
 此の当時の我が故郷は、戸数四十七戸だったのである。その後もそれほど増加しておらず、私が村を出る頃でも六十戸余ではなかったろうか。

 それだけ、耕地も少なく、分家する余地がなかったと言うことだろう。私のような次三男は、養子に入る以外は下男として、百姓仕事を手伝うことで、その日の糧を凌いでいたのだろ。

 「三石、人別割。此の請け人数二百二十二人。二才下除く、但し一人に付き、米一升四合一勺」
そして人口は、二百二十二人、単純平均で一戸辺り4.7人と言うことで以外に小家族である。

 「五月十二日、一、米一斗二升八才彦左衛門。内、一升四合九勺引き、残り米一斗五合九勺」此の、彦左衛門は、この「覚え帳」を書き留めた本人であり、当時六十九才であった。

 この当時、村でどのような身分であったか定かではないが、代官所以外に、個人でも工面して村民救済に融通し合っていたと言うことであろう。

 更に、「本戌より寅まで五か年賦、種籾拝借。金四両と永五十三文四分。

 永三百五十六文五分、三割増し利金。合五両壱分永十九文四厘。一ヵ年より、金一両永五十三文八分四厘二毛、名主武左衛門」となっており、名主武左衛門も、種拝借代として、五両壱分余りを、貸し付け、潰れ百姓の出るのを押さえ、未曾有の飢饉を必死に乗り越えてと言うことである。

 この「覚え帳」に、「(天保七年)四月より八月まで五ヶ月朔々は、みづのえ癸(みずのと)続き、其れ故○大雨天、後年心得有るべし」

 みずのえ癸は、年や日を表すのに、「十干」と「十二支」を組み合わせて表していた。「十干」を兄(え)と弟(と)に別けて十二支に配する方法が行われていたが、この文意は分からない。

 同じ頃、塩崎村(現篠ノ井市塩崎)に残っている「大凶作留書」には、「三月下旬より雨続き、五月下旬の頃昼夜八日程一刻も雨止まず降り続き、九月上旬まで。みづの日みづのと続く度、神鳴り(雷)少しばかり二三度も鳴るばかり」と記されている。

 この頃不思議な現象が各地で起きていて、前出の「凶作心得要書」によると、「(天保七年)四月十九日渋の如き雨降る、その色黄にして石などに溜まり、暫らくの内有り」

 また、「八月十五日朝日ちらちらとして廻るが如く、又薄青くして其の中(うち)一面黄色にて、人顔壁なども黄色に見ゆる不思議の事也」と書かれている。

 更に、江戸時代の桐原村(現長野市桐原)の医師が書き綴った文書に、「天保八閏四月六日終日霞の日輪、朱の如く煖で蒸す如く、同七日朝、暾(あさひ)又朱の如し同十日大霜、綿藤豆、小角豆等残らず枯失」

 これらがどう言う現象であったか分からないが、この地方一円の現象として書き残されては居らず、一分の噂が百姓たちの不安な感情をより煽ったのかもしれない。

 そして、この時より七年後の弘化元年(1844)、村は増し高となり、八十四石三斗五合の取米割付となり、石盛り二百十石となり明治維新を迎えている。(07.12仏法僧)


参考文献:天保凶作一件穀物萬覚え帳、百姓伝記、長野郷土史研究会機関紙「長野87号」、山村生活の研究、江戸物価事典