サイバー老人ホーム

234.「天保凶作一件覚え帳」6

 我が故郷がこの頃、藁餅を食べたかどうかは定かではない。しかし、「覚え帳」の中に、「飢え死の事」という記録がある。

 これによると、天保七年七月二十五日に早くも「政次郎死す。九月二十五日惣衛門母死す・・・」以下日を追うごとに増加している。ただ、死んだ人の多くは六十歳以上の高齢者となっていて、体力のない老人から死んでいったのだろう。中でも哀れなのが、同年三月頃「小作三四人有り」と書かれていて、名前すら書かれていない。

 「申七月昼位より六月四日迄、大児共二十人死」んだ。
 その後も、死者は増加して、中には、「十一月八日栄吉四十三才死、同九日栄吉女房子二人死」などと言う悲惨なのもある。
 そして、何代か前の我が家の本家筋の祖先と同名の人もあって、果たしてこれが、我が祖先であったかどうか分からないが、当時の状況は、藁餅を食する状況だったに違いない。

 結局、天保七年七月より天保八年十一月十一日までの間に、死者の総勢は三十五人だった。この記録の中に、「江戸にては物貰い人ばかり去る申し、申九月より当酉六月まで一万三千二百人余り死と聞き申す候。この近村にては旅へ出て死し候もの村々に有り」となっていて、この辺りでも百姓を見限った棄民が出ていたのだろうか。

 なお、この当時の我が村は、軒数で四十七軒、村人は総数二百二十二人となっているので、村人の一割五分以上が飢え死にしたことになる。

 また、別の記録によると、天保元年における村人総勢は二百五十七人だったが、天保十年には百八十七人にまで減少している。しかも、この間の戸数は五十一戸から五十戸と殆ど変化していないことから、飢え死にまたは棄民として村を捨てたことになるのだろうか。

 御影代官所に近い横根村(佐久市)の宗門帳によると、天保七年の家数七十五軒、人口三百五十二人であったが、天保九年は六十二軒、二百九十六人に減っている。

 そして、「この中には痛ましい一家餓死が二件あり、死亡のほかに三十六人の家出が含まれる。家出人は年寄りが多く、若い者の邪魔にならないように乞食に流れ出たか、死に場所を求めておく山へ迷い込んだのだろう」と言う事である。

 一方、千曲川を隔てた隣村に南相木村と言う村があるが、天保七年の大飢饉で、村人百二十余人が死んだと言う記録がある。
 ただ、この場合は村の単位が違い、一概にその多寡を論じられないが、いずれにせよ当時の百姓達は、まさに生死の境をかろうじて生き延びてきたと言うことになる。

 「凶作心得要書」によると、「(天保八年)三月頃より国中一統餓死多分之有り、別けて碓井嶺(碓氷峠)上州辺り多し。此の辺りにても三人位ずつ餓死致す。川々に流れ死多し」

 いちいち葬儀をしている間もなく、そのまま川に打ち捨てたのか、もしくは前述のように、自分から入水して命を絶ったのかもしれない。

 「三月下旬より諸国時疫流行にて人多く死す。別けて江府(江戸)などに多く有り。是は格別悪食いたし候故と思われ候」と深刻さを増している。

 そして、「米相場此の秋より亥(天保十年)の三月、上旬まで一駄一両二分位」と安定し、「三月中旬より、近国常に大あまり、米下がり候」となっている。果たして、この米はどこから出てきたのだろうか。

 此の年の2月に大阪で、「大塩平八郎の変」が発生している。大塩平八郎は、大阪東奉行所の与力であり学者であった。打ち続く凶作の影響は、米集荷場でもある大坂にも及び、当時、大坂では米価が暴騰し、多数の餓死者が出た。

 一方、奉行所は幕府への機嫌取りのために大阪から江戸へ送られる米(廻米)と、豪商による米価つり上げを狙った米の買い占めによって大阪の民衆はますます飢餓にあえいだ。

 大塩は、当時の東町奉行跡部良弼(よしすけ)に対して、蔵米(旗本および御家人の給料として幕府が保管する米)を民に与えることや、豪商に買い占めを止めさせることを要請した。跡部はこれに対してなんらの打開策を立てないばかりか、豪商らによる米の買い占めを傍観した。

 その後、大塩は蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討つ以外に根本的解決は望めないと考え、同輩、門人、民衆と共に二月十八日に大筒を引き出し蜂起する。しかし、幕府方に事前に察知され、間もなく鎮圧された。

 この事件は幕臣自らが惹き起こした騒動であり、幕府の威信に関わるものであっただけに、事件後の追及は厳しく、このときの処刑者は750人にも及んだと言うことである。ちなみに、此のときの町奉行跡部良弼は後の老中首座で天保改革を推し進めた水野忠邦の実弟である。

 この「大塩の変」に刺激され、越後柏崎では、国学者生田万(よろず)が陣屋を襲撃し、摂津能勢(大阪府能勢町)では「徳政大塩味方」を標榜する能勢騒動が起きて、それまでの農民騒動と様相を異にしている。

 この「大塩平八郎の乱」に関わることが、遠く離れた信州の片田舎まで及んでいた。「騒動御しずめ遊ばされ候。摂州尼崎、四万石松平遠江守様」の書き出しで次のように書かれている。摂州尼崎とは、現在の兵庫県尼崎であり、私の現在住んでいる隣町である。

 また、松平遠江守は、松平忠栄で、尼崎藩は大阪町奉行所と淀川をはさんで目と鼻の先であり、当時の大阪城代であった土井利位(としつら、後の老中)に従って乱を平定したのだろう。

 「当二月九日容易ざる企てに及び、大阪市中所々放火いたし、乱法に及び候元大阪奉行所与力大塩平八郎、並びに同役大塩格之助(以下四人)、右六人人相書御触書、別に名前写し置き有り左の通り」として、以下六名の人相書が書かれている。

 此の人相書は,ドラマなどで見る似顔絵ではなく、「人相書、大塩平八郎」の見出しで、以下、「1、年頃四十五六、1、顔細長く色白き方、1、眉毛細く薄き方、1、額開き月代広き方、1、眼細くつり候方、1、鼻常体、1、丈常体中肉、1、言舌さわやかにやさしき方。
 其の節の着用、1、鍬形付き甲着用、1、黒き陣羽織、1、其の余(その他)着用分からず」このようにめいめいの人相書が記されている。

 最後に、「右の者共 之れ有りにおいては、其処に留置、早々大阪町奉行所え申し出べく、若し見聞に及び候はば其段も申出べく候。

 隠し置き、脇より相知れ候わば、曲事と為すべし。右の趣、御書付出候間、其の意を得、此廻状村下にて請印早々順達、留り村より相返すべく者也。大原左近、酉三月十五日御影御役所印、宿岩始平沢村迄 右村々名主・組頭」

 当時、人相書が出されるのは、「公儀に対し重き候謀計」など重罪に限られ、御領私領を問わず、全国に触れを流していた。

 此の中の、宿岩とは宿岩村であり、現在の佐久穂町(南佐久郡)の一部であり、平沢とは現南牧村の一部である。

 この文書は、同じ内容のものが各地に残っており、幕府内で起きたこの事件に対し、幕府は威信を賭けて全国に大塩平八郎召し取りの手配をしたのだろう。

 ただ、「大塩平八郎の変」は天保八年二月十八日に起こっていて、此の書き付けの「当二月九日」とは明らかに異なり、単なる筆写の誤りであろう。

 大塩平八郎は、事件後、倅(養子)格之助と逃亡し、大阪の商家の蔵に隠れていたが、この回状が回された十二日後の三月二十七日に商家の下女の告げ口から発見され、土蔵の中で、火薬に火をつけて爆死したと言われている。(07.12仏法僧)