サイバー老人ホーム

333.「天保凶作一件覚え帳」5
 凶作の間、村人達は必死に様々な生き残り策を講じている。「凶作の年柄の節能(よく)心得」と言う書き込みが有る。

 凶作の年は「野菜を沢山用意し、之を食する事は秋の内より心掛け、成る丈日々夕食は粥に致すべし。春に至急に難儀致さず様心掛け、後悔いたさぬ様申すべき候」と書かれていて村人に倹約を伝えている。

 前出の「凶作心得要書」にも、「凶作食物種々の仕法多し、小豆粥、味噌粥、白粥、などえ菜大根等切り込み、最上の食とす」と書かれている。最上の食であったかどうかは別にして、終戦直後の食糧難時代、同じような粗食で飢えをしのんだ記憶がある。

 当時の百姓は、米を作っていながら、米だけを食べるなど言うのは、正月三が日くらいもあり、殆どが僅かな米に粟・稗や干葉(乾燥した菜っ葉)を混ぜた「糧(かて)飯」であった。

 その中には、原野にある食べられそうなものをあさったのだろう。天保八年正月、松代藩主(千曲市)が領民に示した「御上様より品々食物触書之写(以下食物触書之写)」と言うのが残っていて、およそ、この時代、野草、木のみ、根、茸、昆虫(いなご、蜂の子、蚕の蛹、げんごろう、たにし)など、食料としたものは驚くほど多い。

 此の頃、今では考えられないような野生の植物の若芽や根を多く食している。其の中には、葭(よし)、蒲、つばな(ちがや)、菰(まこも)などの根や若芽、またたび、いたどり、あけびの若芽、つゆくさ、あめふり花、おんばく(おおばこ)の根、しょうぶの根、せきしょうの根、ところ、おけらの根、すぎな、ちちこ草、桔梗の葉、藤の葉、あざみ等々で、今では余りお目にかかれないような植物もある。

 その中で、「松葉、是をつき砕き、流れ水に浸す事三四日にして、渋気の去りたるを蒸して干し上げ、石臼へかけ、粉にして用ちゆ。右を一斗に豆の粉一升を加えて用ゆれば、甘みありて用ひよしとぞ」と調理方法まで示している。

 しかし、いわゆる腹持ちのする救荒食物(凶作の時の食物)は、栃の実や楢の実(どんぐり)などであった。そのため、幕府は栃の木の伐採を禁じているが、我が故郷では、子供の頃記憶にある栃の木は一本だけであったと記憶している。

 そして、それらの中には毒物もあったのだろう、「毒あたり之覚」と言う記録が残っている。

 「ひかりなの根大きに悪し、取るべからず、損じ候あり。わらびの根、麻種油ケ類、くぞ(葛)の根右何連(いずれ)も悪し、ところ(野老)根食い合わせ大きに難儀いたし人または死し候も有り」

 この中で、「ひかりな」と言うのは不明である。ただ、わらびの根、葛の根というのは、今でもわらび餅や葛餅として食せられており、多分澱粉にするまでの加工方法が分からなかったのではなかろうか。

 また、「麻種油ケ類」なども意味不明であるが、子供の頃、麻の実を煎ってすり鉢ですり潰したところへ味噌を加えた舐め味噌を食べた事がある。この味噌を「気違い味噌」と呼んでいたが、麻と言うのは、麻薬性があると聞いていたが、もしかしたら、麻の実にも同様な作用があったのかもしれない。

 また、「ところ」と言うのは、つる草の一種であり、柳田國男の「山村生活の研究」によると、ところに粟をこね混ぜて、焼餅にして食すとあり、「食物触書之写」によると、ところは「病人又は弱きものは食べからず」となっていて、病弱のものには合わなかったのかもしれない。

 その他、私が子供の頃、餓鬼大将になって、おやつ代わりに食べた「いたどり」は、「はらみ女は食べからず」となっていて、子供の頃この教訓があったか記憶にない。

 ただ、こうした「草根、木葉の実を食して若し毒にあたるか、気分悪しくば、白米の挽き割り粥を能く煮て湯の様にして、焼き塩か焼き味噌を入れて度々吸わせよ。
 惣じて飢える事甚だしきものは脾胃に塩の殻(空)の気と、ともにたゆたる(目まい?)故に死する也。塩さえ絶えず食すれば右の害なし」と、「食物触書之写」に書かれていて、実効があったかどうかは別として、危急の中で夫々に手を尽くしていたのだろう。

 百姓が凶作に備えるための作物を栽培する救荒作物には、甘藷・馬鈴薯・稗などあるが、私のふるさとでは、主に粟・稗・蕎麦・麦・大豆などで、いわゆる囲い(保存)の利くものが主体であった。

 野菜については、天保八年三月、茄子、唐辛子、瓜、かぼちゃ、夕顔の種を上州(群馬県)甲州から取り寄せて蒔いたと言う記録があるが、腹持ちのする芋などの記録は見あたらない。

 天保初期の儒者寺門静軒によって書かれた「江戸繁昌記」によると、「?薯(やきいも)」について、江戸では「蕃薯(ばんしょ=さつまいも)の都下に行わるる今すでに久し」書かれていて、焼き芋を焼く煙で、江戸の町が霞むほどであったらしい。

 これが蕃薯であったかどうか分からないが、「左妻四十連也九月中(天保七年)積む」と言う記録が残っている。

 救荒食物の最たるものに、「藁餅」と言うのがある。天明三年の大飢饉で、幕府がその作り方を示して奨励している。

 藁餅については、乙事村(現諏訪郡富士見村)の「万年書留帳」の天明飢饉の項に、「藁餅夫食に致し候。わらを細かに切り、日に干し、立ち臼にて粉に致し、わら粉一升え五穀の内何れ共二合宛入れ候へば宜しき食事也。秋過ぎより來五月迄人々之を拵え、食物と致し候而、大きに諸人之助けと成り候」と詳細に書かれている。

 また、佐久地方に残る、「天保凶作飢饉記(佐久市平尾)」に「わらこうせん」と言う記録が残っている。「こうせん」とは、一般に麦焦がしといわれ、子供の頃、しいな米を煎って石臼で挽いた物をおやつ代わりに食べたことがあったが、稲藁を同様に臼で挽いて食べていたのかもしれない。

 ここまでくると、食料の限界であり、味とか栄養とか言う以前のもので、果たして、この当時我が故郷で藁餅を食したかどうかは定かではない。(07.11仏法僧)