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232.「天保凶作一件穀物萬覚え帳」4

  十一月になって、村は、「郷蔵稗一斗七升五合」を借りており、加えて、「郷借金二十両」を借りている。この、郷蔵とは天明飢饉に懲りて、近郷の村々と設置された共同の倉庫で、備荒用(飢饉用)の穀物の貯蔵倉である。

 ただ、郷借金(村借金)「是は松原村真光寺御世話にて江戸東叡山より拝借、利息年中一割五分、五ヵ年年賦なしくずし返上」となっている。この、松原真光寺とは、我が村にある、松原諏訪神社の別当寺のことで、現在は残っていない。

 この寺は、上野東叡山寛永寺の末寺となっていて、本寺である寛永寺から借りたと言うことであって、徳川家菩提寺である。

 ただ、当時、金貸しや質屋などは幕府の厳しい統制の中にあって、たとえ寺といえども、利子を取って金を貸すなどと言うことは容易ではなかった。

 そこで、余財のある資産家は、官家が祠堂(位牌堂)修復のためと言う名目で、特定の寺社に公認されていた貸付金(名目金)で、この場合、一般に寛永寺御貸付金といわれていた資金と言うことになる。

  この借金、「二十両の内、十両申(天保七年)十二月二十五日人別一人に付き金一朱宛割、金壱分三朱五人前、内、二朱は寅吉より借り申し候」となっている。わが村には、いわゆる分限者と言うほどの大地主はいない。この寅吉がどのような人であったか分からないが、お互いに助け合っていたのだろう。

 「残金十両割り」に付いては、「四月十三日、金壱分一朱、是は春割返上右の通り」分配している。

 「酉正月十三日割、同壱分一朱と七十九文、是は公儀より急ぎ夫食御手当て、返上五ヵ年賦」となり、公儀からの借入金になっている。

 これを裏付けるように、前出の「凶作心得要書」にも、「十二月御役所より村々へ拝借金御下げ、村方へ金十三両なり。この返済五年賦なし崩し」と書かれている。

 そして、「五月十二日、米一斗二升八勺、人別四人分、残米一升五合八勺請け取り。同日、三百七十文、人別右同断(同様)、是は種籾代拝借分、右拝借惣人別二百二十二人割、一人に付き鐚(びた)八十文宛て。金にして〆て金一両二分三朱に少し不足」を拝借しているが、これは後ほど出てくる「夫食拝借証文」の中身をさす事であろうか。

 ところで、「鐚」とは、幕府公認の永楽銭(この頃は寛永通宝)以外の、大名などが私鋳した粗悪銭で、永一文に対して、鐚四文の交換比率だった。

 ただこうした金は、村の分限者(金持ちや財産家)から徴収しており、「凶作心得要書」には、「九月中御代官大原左近様御陣着、其の節村々身元相応の者御召出し、銘々御用金仰せ渡され、手前儀(早川定賢)も金百両差し出し金致す、尤も五か年賦なし崩し御下げ戻しの筈」となっている。

 当時の百姓は、土地持ちの本百姓のほか、土地を借りて百姓をする小前百姓、いわゆる水呑み百姓と言うのがいた。これらの小前は、本百姓以上に深刻であったのだろう。地主は、それらに対して救援の手を添えている。

 「小作田地、種籾地主より貸し申し候。但し、一俵取り一朱積もり、金子にて十俵取り金壱分。八十八夜三月二十九日」

 前出「凶作心得要書」には、「五月中御領村々へ公儀より種籾代金として五ヵ年賦三割利足にて御貸付金これ有り」と記されていて、幕府は百姓救済のための貸付を行っている。

 「酉年(天保八年)稲苗大違い、ひね籾種別けて違い、申年の籾能く(良く)改め致し候は可なり当り申し候。

 稗作仕り付き、五月中其の日植え始め、六月十日迄に残らず植え候。稗作凡そ三カ一程植え申し候。

 稲苗違い故、野沢辺りにては松本・諏訪郡より取り調べ植える。高野町は甲州長沢辺りより付け寄せ申し候。里方、惣て田あき申し候」

 田植えや種蒔きをしようとしても、新たに植える種や籾にも事欠く状態であり、稗なども平年の3分の1程度で、そのため植え付けのできない田が出てきたと言うことであろうか。

 「凶作心得要書」にも、「当郡の内苗間(なわしろ)格別に大違い、村々融通届兼ね、殊に山付き村々は別けて生い立ち宜しからず、明地多く、稗杯植え付け候」と記載を裏付けている。

 更に、「尤も銘々再苗間仕込み候えども、是また生い立ち宜しい分は稀にて、大体は違い候。勿論、格別の早稲種は平年の通り生い立ち候。晩稲の分は一体申年実入り宜しからず故と思われ候」折角蒔いた種も、発芽しないものが多かったと言うことである。

 更に、「凶作心得要書」によると、「田植え前になり、村々苗番有り苗盗人多し、大麦は青麦の内より穂切り盛り賊多し」と書かれており、何れの百姓も生き延びを賭けて必死だったのだろう。

 しかし、天保八年は一転し、旱魃傾向にあり、「(五月一日)より、六月二十一日迄旱魃にて、畑方大小豆其の外粟、稗、黍(きび)、胡麻、野菜残らず旱損いたし、就中(なかんずく)大小豆種切れに相成り場所多し」となっている

 「六月二十日過ぎて少々雨降り候えども、七月二十日迄は大雨なし、凡そ八十日ほどの旱魃なり」

 その結果、「天保八年田方違い作、此の近村本間川(村)より稲子(村)新田まで違い、里方は八九分取り、山方は五六分取り」と作柄は芳しくない。

 「当村と八那池村御検見請け申し候。田米十一石一斗余、内十石余御引き方に相成り候。残り米七斗一升納め申し候。福山取り入れ平均壱分取り位、実入りは吉。米相場は一駄金一両八分位」「六月より穀物追々値下げ」とようやく微かな明るさが見えてくる。

 ただ、我が故郷の、当時の定免(年貢高)は、三十一石三斗余りであったから、米七斗一升納めと言うことは、平年の3パーセントにも満たないと言うことになる。

 なお、「福山」とは、我が故郷の誇る田圃であり、この頃より、二百五十年遡り、時の小諸城主仙石越前守秀久(後の出石藩主)によって新田開発を命ぜられた田圃である。この当時まだ開発途上であったのだろうか、わずか一分の出来と言うことであった。
(07.10仏法僧)