サイバー老人ホーム

231.「天保凶作一件覚え帳」3

  先に行われた検見に対する代官所の裁定は、「十一月十二日田方仮免状御渡し之有り、田方残らず皆無に相成り候」となった。

 別の記録によると、当時の私の故郷は、享保十年(1725)の検地で、田畑合わせて、二町四反五畝十二歩で、「天保十四年迄三十一石三斗三升五合の取り米(年貢)御割付けにより上納」していた。

 免定(年貢率)は、四公六民などといわれているが、四公とは、収量の四割が年貢と言うことである。仮に、当時四公であれば、我が故郷は、七十八石三斗余りの収量だった事になる。

天保七年の全国作柄平均は、四割二分四厘といわれ、十月に江戸における米相場は、一両に付き、三斗二升八合、百文に付き四合九勺であった。

 明けて、天保八年「極上古米八斗四升、百文に付き、三合の売り、〆て四両壱分二朱、ここのところ無心致せば右相場あり」と書かれている。この頃、大阪堂島相場は、一両に二斗六升二合で、百文当り四合五勺であった。

 「凶作心得要書」によれば、「正月下旬より日影通り入り方、其の外近辺より作り潰れし由にて貧民ども貰いに来る。日々増長し夥しき事也」飢民が日々増加して言ったのだろう。

 天保八年二月、「白米古米百文に付き三合五勺は、八斗四升荷一駄金三両三分、新米百文に付き四合五勺は八斗四升荷一駄金二両三分二朱と三百文、両買い六貫四百文也」

 この当時、米の値段は銭百文に付き買える量を示し、取引単位は馬一頭に積める俵の量(一駄二俵)としていた。この時、新米の方が古米より安かったと言うことは、新米の出来(質)が悪かったと言うことかもしれない。ただ、米の値段と言うのは、こんな片田舎でも、都市の相場がよく反映されていたと言うことになる。

 二月七日には「あわかす八升代一朱」などと書かれていて、この「あわかす」と言うのがどのような物か分からないが、村での買い付け量は一段と少なくなっていった。近在近郷でも食料の欠乏してきた事が伺える。

 ただ、これだけ食料が払底していても、塩の値段は一升に付き百文と変わっていない。当時、江戸での塩の相場は、天保十二年まで、一石当たり、銀十五〜十六匁でおよそ一分(四分の一両)と安定していた。一両を六貫四百文とした場合は、一升が十六文と言うことになる。

 塩の場合は豊凶に関係なかったこととはいえ、塩は生きていく上で代用が利かない事から、幕府も価格の安定に意を注いでいたのだろ。

 三月に入っても状況は変わっていない。この頃になると、そろそろ苗代の準備にかかっていたのだろう。

 「稲苗大違い並蒔き一同いたし候。未年籾蒔き付け候故か、申年種籾沢山改め置き、少下ケ蒔き候分吉。八十前より四月十日迄雨天、大きに寒く、同十一日より上天気、照方に相成り候。八十八夜三月二十九日」

 文意が分かり難いが、未年(天保六年)は例年通りの種まきをしたが、稲苗は大違いに成ったので、申年(天保七年)は改め、少し下げ(遅く)播きしたら良かった、と言うことだろうか。

 四月に入ると、「四月二十日頃より古米八斗六升、荷一駄金四両壱分二朱と七百三十二文、百文に付き三合、馬流八那池(隣村)にてこの相場、尤も野沢辺り(佐久市)相場は九斗荷一駄金三両三分二朱となる(江戸白米百文に三合ずつ)」とさらに値上がりしている。

 「五月二日三日頃、米一駄里方金四両二分上り、近辺米売り御座無く候、金壱分に付き白米四升上回る」と状況は悪くなっている。

 更に、「同八九日頃、近村に米売りなし、野沢辺り、米一駄五両位と聞く、四両三分二朱売り買い有り」と更に絶望的な状況になっている。

 これを示すものとし、「同月九日、雑穀取り合い、しいな五升代五百文」と書かれている。この「しいな」とは、完全に実っていない屑米の事である。村は、必死に食料の確保をしたのだろう。

 「五月七日取手村にて当村善之丞倅重太郎行き、米四斗五升入り一俵、金二両壱分二朱に買い、一駄四両三分也、百文に付き二合八勺」となった。

 この取手村とは、明治二十二年に、たびたび出てくる野沢村と併合した現佐久市野沢町の一部である。ただ、当時の取手村は、田口領であり、田口領は、三河奥殿藩松平乗真の私領であった。当時、村は領域を超えて、必死に食料を探し回っていたのだろう。

 ただ、この頃には村の資金も欠乏して来たのだろう、「五月十三日、玄米三升五合三勺、代金二朱と永二百六十四文拝借残、但しこの米一朱と三百文」と掛買いしている。

 そして、「五月三十日、大麦五六分取り、其れより大麦取り始め申し候。実入り大きに吉、小麦違い四歩取り」と、ようやく仄かな明るみがさしてくる。

 当時の作柄について、豊作の場合は、「当たり」、不作の場合は「違い」と言っており、私の子供の頃も同じだった。

 七月に入り、「野沢辺りにて、七月十日麦相場、大麦一駄金二両二分、小麦金一両に付き三斗五升、百文に付き五合五勺」となっており、「酉三月二十三日より七月十九日迄、〆て白米四斗三升三合、代金二両一朱と三百六十一文、平均致し金一両に付き、二斗二合に相成り候」であった。

 そして「七月一前より米下り、売り米沢山に里方は相成り候。五月より照方にて六月二十四日夕方夕立少し始まり、九日しけ申し候。湿るほどは降り申さず候。大日様にて七月二十二日三日両日沢山降り畑作○○は少し直る」

 結局、「申十二月二十四日より、酉三月二十九日迄分改め、〆て金二両壱分と二百十五文、惣〆は五両二分と五百七十一文」の出費をし、凶作の始まった「申七月より酉九月八日まで、四口〆て御拝借米共〆て金八両壱分と二百八十五文」、この飢饉で、村が買い入れた食料費は八両壱分余りだった。(07.10仏法僧)