サイバー老人ホーム

230.「天保凶作一件穀物萬覚え帳」2

 230.「天保凶作一件穀物萬覚え帳」2
 長野県郷土史研究会機関紙「長野第87号」によると、この時の飢饉について、前山村(佐久市前山)の分限者早川定賢が「凶作心得要書」と言うのを残しており、

 それによると、「(天保七年)正月の中五日也。前年之十月より大雪積もり、二月初旬まで田畑ともに一面に消えず、漸々雪消しに成りても、兎角雨勝ちにて余寒強く、暖和の日少なし」、
 そして、「四月五日頃に成りても冷気強く、麦作出来方平年よりは十日遅れ、其の上前冬氷らず内より大雪故、その下夕にて蒸れ候故にや、春中雪消えの後、小麦杯(芽)は過半枯乾、中山畑は一切種切れの場所多分なり」と書かれている。

 これを裏付けるように、「(天保七年)五月雨天勝ち水沢山、小麦元高不足にして三四分取り、山地は皆無なり。大麦元不足大麦五六分取りなり。五月三日夕方氷降る。大麦こぼれ、作入物満作大きに痛み候」

 麦の取り入れ時期でも天候は回復せず、収穫は平年作に対して半分にも満たなかった。元不足と言うのは、蒔いた種以上の収穫がなかったと言うことであろう。

 「百姓伝記」によると、「五月節に入り、さびらき(早開き)と言うて苗を取り始め、田を植え始めるに吉日あり。五月節七日十日のうちに、早・中・晩田とも植える事、本意なるべし」と書かれているが、この年天候不順により田植え時期から狂いが出ていた。

 「六月七月土用中甚だ冷気強く雨天多し」、「七月二十二日二百十日に候得共出穂平年より十日程の遅れに成る」
 「八月雨日十二日降り立ち、十三日大雨にてその夜四ッ時大水にて橋々不残落ちる。

 十四日より天気、十五日朝大霜、それより十七日朝迄霜、大きに寒し、十八日夜夕立のような大雨。

 十九日より上天気寒く相成り、二十日朝迄大霜にて満作残らずいたみ一円に実法(みのり)も申さず」

 天候は日を追うごとに悪化している。我が故郷は、千曲川流域にあるが、村内にはさしたる橋はない。したがって、八月十三日の大雨で流された橋は下流の村々の橋であったろう。

 天保七年八月十九日と言うのは太陽暦の九月二十九日に当り、この段階で既にもう霜が降っていたと言うことである。

 直前出の、「凶作心得要書」には、「八月十五日朝日ちらちらとして廻るが如く、又薄青くして其の中一面黄色にて、人顔壁なども黄色に見ゆる不思議の事成り」と書かれている。

 その後も「大きにさむく九月九日迄天気、それより少々暖かに相成り申し候」となり、ようやく少しほっとした状況になる。

 村は、「毛附(年貢割り当て)帳惣皆無に認め差出し、御影御代官所大原左近様田方御検見相願い」を申請している。

 信州佐久地方は、この頃、小諸藩領、旗本・大小大名の私領、それに幕府直轄領が混在し、しかもこれらが目まぐるしく変わっていた。その中で、我が故郷は幕府直轄領、いわゆる天領であり、支配は御影代官所であった。

 この御影(旧南大井村)と言うのは、長野新幹線佐久平駅の北西あたりであり、私の故郷とは可なり離れている。

 当時代官所は陣屋といわれ、代官は江戸の在住し、年に二度ほどしか出てこなかったと言うことである。陣屋には、元締・支配・手代などが居って、村々を管理していた。

 「九月十五日御代官様御影御出立平賀村御泊り、十六日八那村(隣村)御泊り、御手分け相成り元〆(元締)大羽建八様中之条勤め、水野利八様崎田村泊まりにて十二日当村御越し之有り。

 神明前屋敷割東次右衛門田にて御坪刈り御改め、籾五勺之有り。其の夜殿様御一同前山村御泊十七日下縣村泊り、それより小県中之条へ御越し遊され候」

 坪狩とは、一坪当たりに稲を刈り取り、その籾の収量によって、全体の収穫高を算出する検見の方法である。標準的な収量は上田(じょうでん)、中田(ちゅうでん)、下田(げでん)、下下田(げげでん)に区分けされていたが、おそらくこの当時にわが故郷の田圃は下下田であったろう。

 この当時、一反あたりの石盛り(収量)は、下下田で九斗ということだから、一坪当り、三合程度である。その収量がたったの籾五勺と言うことは、如何に深刻な凶作であったかと言うことになる。

 なお、「凶作心得要書」には、「九月中御代官大原左近様御陣着。其の節村々身元相応の者御召し出し、銘々誤用金仰せ渡され、手前儀も金百両差し出し金致す。尤も五ヵ年賦なし崩し緒下げ戻しの筈」とし、代官より御紋付き御上下拝領している。

 天保七年から天保八年春まで百姓たちはどのようにして生き延びたかと言うと、当時の村役は八方手を尽くして、米やその他の穀類を買いあさっている。これは自分が食べるためではなく、村人に食べさせるためのものである。買い集めた米などを村人に貸し与えていたのだろう。

 江戸時代までは、流通する貨幣は、金、銀、銭の三種類が流通していたが、江戸を中心にした東国では金と銭であり、大阪を中心にする西国では銀と銭であった。わが故郷は当然東国の仕来たりであった。

 金と銀との交換比率は、一両が銀六十文目であり、「酉(天保八年)、両買い金一両につき六貫四百文なり」だった。ちなみに一貫は千文である。

 ただ、百姓の場合は、生活の基盤は米であり、米の収量と値段が生活に大きく影響していた。米相場は、東国では貨幣額を始めに示し、それに見合う米の量で表示している(例百文につき五合)。一方西国では、米の量をはじめに表示し、それに見合う値、すなわち銀の量で表示した。

 一般的には、米一石は一両などといわれていたが、通貨の価値の下落もあって、豊作であった天保三年の一両に付き九斗三合八合を最低に、その後、徐々に値上がりしている。

 飢饉であった天保4年は、五斗二升五合八勺、豊作であった翌五年は、七斗二升六合六勺、そして冷夏だった六年には、再び六斗三升五合となっている。

 「覚え帳」には、「米一駄金一両三分二朱の割りなり」と書かれて、「申七月十七日、白一斗五勺、中村の庄蔵より、代金三朱」で購入し、以下同様に何人からも買っている。

 この頃、江戸では寄り集まる窮民に対し、男一人に対し、米三合五勺と銭四十三文、女子供及び年寄りに対し、米一合五勺と銭二十四文の御救い米金を施している。当時、二八蕎麦・うどんと言って、蕎麦うどんが二十八文といわれていたが、果たしてこの御救い米金がどのくらいの効果があったのだろうか。

 一方、我が故郷では「八月二十日頃は、白米百文につき、五合五勺に成り、それより日々上がり、売り米一向に無く、一同難儀、同下旬より粟・蕎麦早生取りいたし申し候」と絶望的に書かれている。

 「天保七年八月十九日より甲州郡内は、谷村辺りより騒動始まり、それより石和を出、甲府段々邊見筋大ヶ原五丁田村の間にて静まり申し候。委は騒動に之有り」

 これは、隣の幕府直轄地甲州甲斐郡(今の都留郡)で、穀物買占めを行った商人や地主に対し、百姓たちが武装蜂起して、これらを襲い打壊しなどを行った。
 これに手を焼いた甲府代官所は近隣諸藩に出兵を仰ぎ、ようやく鎮圧したと言う事件である。当時、我が故郷も、同じ天領であり、緊迫した状況が、伝えられていたのだろう。

 当時、我が故郷も、甲州と取引をしていたが、何れの国でも深刻な食糧不足になっていたのだろう。やがて、甲州では「穀止め」を行って、他領への穀物の持ち出しを禁じている。

 また当時、夜陰にまぎれての畑作物を盗む「野荒し」が横行していたのだろう。別の資料によると、八月に、近在七ケ村の名主が集まり、「一同相談の上、取り定め、左の通り」六か条の取り決めしている。

 其の中に「其の者共(野荒し等)召し捕り候節、農具または有り合わせ候品にて打ち倒し、即死いたし候儀も、計り難し」とあり、その場合は、「何れの村方の者に候共、早速引き取り、決して其の所の難儀に相成らず様仕りべく候事」
即ち、「打ち殺し勝手」と取り決めている。(07.09仏法僧)