サイバー老人ホーム

229.「天保凶作一件穀物萬覚え帳」1

 先日、私の故郷の郷土史家Y老から、「天保凶作一件穀物萬覚え帳(以下覚え帳)」という古文書の写しを送って頂いた。この古文書は、私の生まれ故郷(信州)の百姓が、天保七年(1836)に起きた大凶作について書き残したものである。

 一般に、大飢饉と言うのは過去の歴史の中でも何回か起こっているが、近世においては天保七年が過去最大の凶作だったと言われている。

 此の「覚え帳」にも、「凶年紀覚え」と言う記載があり、それによると、「天正六年寅(1578)米相場存ず」と書かれているのが最初である。

 我が故郷が歴史上に出現したのは、天正18年(1590)、秀吉が小田原攻めを行い、この時の功績により、仙石権兵衛秀久が、小諸5万石に封じられてからであり、我が故郷に残る最も古い文書は元和五年(1619)頃である。

 秀久は、天正19年(1591)正月19日、小諸城に入封すると、同月28日には領内の村長等を城内に召し出して、手づから扇子を銘々に与えたと伝えられている。我が祖先が、秀久から、千曲川流域の、「福山原」の新田開発を命じられたと言うのが草分けである。

 ただ、我が祖先たちが、実質的に自立できたのは、秀久の子仙石忠政が襲封した後の、寛永17年(1640)以降である。

 その後幾多の変転を経て、この文書が書かれていた頃は、幕府直轄領、すなわち天領であった。
したがって、ここに記載された天正六年にはまだ影も形も無かったが、此の頃のことがどのように申し継がれて来たのか分からない。

 次いで、「寛永六巳年(1629)」と書かれているが、寛永6年の凶作については歴史書には記載が見当たらず、この地方特有の状況であったのかもしれない。
 次が、「延宝八申年(1680)」であり、この年には諸国で飢饉であったようである。

 更に、「享保十六亥年(1731)」であり、この頃になると、我が故郷も明確になって、「山方田畑四五分取り、里方田畑五六分取り」と記されている。歴史書によると、この年より、翌年、西国で蝗害のために大飢饉となっている。

 「天明三卯年(1783)山方田畑二三四分取り、里方三四五分取り、米一駄金二両二三分多し、三両相場辰(天明四年)二月三日斗有之。大麦十両に付き八俵売り」と書かれていて、被害の状況が可なり具体的になっている。

 この年は浅間山大噴火で全国的に大凶作に見舞われ、取り分け浅間山に近い我が故郷も大きな被害を蒙ったのだろう。なお、一駄というのは馬一頭に積める荷物の量であり、米の場合は2俵であり、1俵当たり大体4斗程度である。

 「天明六午年(1786)山田方四五分取り、里方五六取り、米一駄一両一弐分位」と、天明の大飢饉後まもなく再び飢饉に襲われている。この年は、関東・陸奥大洪水、諸国大凶作と歴史書には書かれている。

 天保年間は総じて不作の年が多く、「天保四巳年(1833)田畑三四分取り、米一駄一両二三分迄。同五午年(1833)元穀少なし六七分取り、米一駄一両位、同年麦作は四五六分取り」と書かれている。

 この年も、関東大風雨、更に出羽・越後は大地震に襲われていて、加えて、諸外国の艦船が来航し、まさに内憂外患の時代であった。

 更に「天保六未年(1835)田畑四五六分取り、米一駄金一両弐分位迄」と凶作が続き、そして、「同七申年(1836)無類大凶作」となったのである。

 このときの飢饉は全国的に及び、取り分け奥羽地方はもっとも甚だしく、餓死者は十万人にも及んだといわれている。

 江戸では、食い詰めた農民などの窮民が35〜41万人に増え、幕府は救済のため二度にわたり施米銭を支給した。

 米価の急騰も引き起こしたため、各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発、翌天保八年二月には大阪の代官所与力大塩平八郎などによる「大塩平八郎の乱」の原因ともなっている。

 この「覚え帳」は、当時現実に生きた百姓が、自ら書き残したもので、歴史的にも非常に貴重な資料であろう。

 この古文書には、この年の凶作の状況や、同時に米を含めた穀物の値段が月を追うごとに書き残されて、当時の百姓たちが絶望的な凶作の中で、どのように生き延びたか窺い知る事ができる

 まず、「前冬(天保六年)十月十九日より雪段々降り続き大雪となり、此の年正・二・三月さむし、四月蒔物時分大雨降る」と書かれている。

 江戸時代前期(天和年間)、三河・遠江の農民たちが伝える伝統的農業技術や知識を個人の体験に照らしつつ集大成した百科事典的農業手引書「百姓伝記」と言う本がある。

 これによると、「わせ麦を蒔く事、寒国には八月下旬より蒔き始めて、九月中に大方まき仕舞い、十月の節に入れば雪降りて蒔く事叶わず、秋の土用(立冬前18日間)前後は何国も麦を蒔きてよしと知るべし」と書かれている。

 そして、「麦の草は冬春までに二へん三べん取るべし」、「麦畑と姑は踏むほどよしと下劣の世話に言えり」と書かれていて、春先まで、麦はよく踏む事が良いとされている。

 天保六年では、ちょうど麦蒔きの頃に早くも雪が降り、その後の除草や麦踏時期にも、十分な手当てが出来なかったのだろう。

 当時の百姓は、通常田圃で取れる米は「冬米」と呼んで、正月より食べ始めるのを習慣にしていた。一方、麦を中心とする春夏穀物は、「夏米」と言って、6月頃から食べる事にしていた。
 勿論 これら単独ではなく、夫々を工夫して食い繋いでいたのだろう。

 当時は、米の消費量は一般的に、一人年間1石8斗などといわれていたが、米を作る百姓はこれよりはるかに少なく、一軒で1石5斗程度だったといわれている。其の外は、麦や蕎麦、粟・稗などの雑穀を食料として生き延びていた。

 このような状況の中で、前年天保六年の不作に加え、頼りの「夏米」の麦の不作が決定的になったのである。(07.09仏法僧)