サイバー老人ホーム

242.手習い

 江戸時代、寺子屋または手習い所などと言われ、子弟の教育が行われたと言うことは良く知られている。寺子屋と言うのは主に上方での呼称であり、江戸では手跡指南とか手習い指南所などと呼ばれていた。

 寺子屋の起源は、中世までさかのぼり、寺で子弟を教育した事に始まり、江戸時代になって商工業が発展すると、それに伴う文書の必要性が深まり、教育熱が高まったからといわれている。

 しからば、この「手習い所」とは如何なるものであったかと言うと、これも時代小説作家佐藤雅美さんによると、「手習い所は六歳の佳辰(かしん)吉例の六月六日」に入門すると言うことらしい。ただ、六月六日と決まれば、佳辰吉例とはならないような気もするが、佳辰吉例がそもそも佳き日と言うことであるらしい。

 正徳四年(1714)に出された「小児必用養育(そだて)草」と言う本によると、「手習いを修めるには、朝に十回、昼に三十回、夜に十回練習するべきで、手本一冊を十五日間と定めて、五日に一度ずつ清書をして、三度目の清書は暗書(それかき)にすべき也」とかなり厳しいことが書かれている。

 寺子屋の師匠は、初めの頃は文字通り寺の僧が行っていたが、その後、武士、浪人、書家、町人など修学者の多くが寺子屋のお師匠さんになったらしい。

 「養育草」によると、「世俗では近年、手習師匠に子どもをあずけて手習いさせるのが通例であるから、その勤め方は師匠の教えに従うべきであり、師弟の関係は一生ついて廻る」と言うもので、いわゆる弟子は筆子と呼ばれていた。

 しからば、手習い所では一体どのようなものが教えられていたかと言うと、上野国勢多郡原の郷村(群馬県)に残された文書によると、男子筆子の学習過程は、先ず最初の「いろは」であり、「いろは」は、この雑言「236.古文書」で触れたので省略する。

 次に「名頭字」で、「源平藤橘惣善孫彦丹吉又半新勘陣内」で始まる名頭字を習うことであった。即ち、源兵衛、源左衛門、源作など源の字で始まる名前を習うわけである。

 次が、近村の村々の名前、続いて国尽で、大日本六十四州の名前、更に年中行事と進み、「東海道往来」で、東海道の各宿場の名前と地理を習う。そして、この辺りから文書実務に進み、「借用証文」、「御関所手形」、「田地売券」と忙しい。

 今はあるかどうか分からないが、私の高校時代にも「文書実務(コレポン)」と言うのが有り、実社会での業務文書の練習をした。

 江戸時代は以前にも触れたように、「お家流」とい文書の表現方法が用いられており、今も残されている古文書はほとんどお家流によって書かれたのもで、書き方は勿論、字のくずし方まで殆ど差異がないほど統一されている。この文書実務は村役の家柄であれば必須の事項であったのだろう。

 続いて、「五人組のヶ条」と言うのがある。江戸時代の市民は、近隣五戸を一組とする最末端の行政組織を結成し、お互いに連帯責任を課し、法令遵守や治安維持、また貢租の完納などのための相互監察や相互扶助を計っていた。

 この五人組を規定するのが「五人組ヶ条」であり、全文で七十ヶ条にも及んでいる。これに当時の民百姓は夫々に書名捺印し、時々名主が読み上げていたと言うことであるが、これを十五にも満たない子供が習っていたと言うことである。

 最後が手紙で、「商売往来 十二歳の春、百姓往来 未の正月、世話千字文 申の秋」と言うことであるが、商人、百姓夫々が、時候に応じた手紙の往来をしていたと言うことだろう。

 ところで、女子の手習いはどうであったかと言うと、「養育草」には「この頃、女子も十二〜十三歳までは手習い所に通わせるが、これは非常によろしくない風俗也。聖賢も「男女七歳にして席を同じうせず」と戒めているのに、斯様に女子を外に出して男子と同じ場所で交わることはあってはならない」手厳しい。

 そして「もとより手習師匠もそれを弁えて男女の席を別々にしているとはいえ、手習い所はさして広くもなく、おのずと男子の様子に慣れてしまうので良からず、女子はとにかく家の中に置いて外に出すべからず」今の世なら、直ちに袋叩きに合うような事が書かれている。

 この、「養育草」が誰を対象に書かれたか分からないが、子供向きとは考えられない。ただ、絵入の冊子で、全六巻もあることから、多分、今の時代同様に、「せめて自分の子供だけには」と考える教育熱心なおろかな親を対象に出された本かもしれない。

 女子の場合は、源平、村尽、国尽、年中行事と男子と比べて少なく、ただ、「女今川」と言うのがある。この「女今川」とは「今川貞世の「今川状」」に擬した絵入仮名書きの教訓書で、習字の手本としても珍重」されたと言うことである。

 然らば、今川状とは何ぞやと言うことになるが、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将で、歌人としても有名であったらしい。

 その今川貞世が自らの養子である弟の仲秋に対して遺した訓戒書で、近世の児童教育に多大の影響を与えたと言うことである。

 早速、NET古本屋を探したら見つかったので、大枚ウン千円を投じて購入した。
 その第一条に、「文道を知らずして、武道終に勝利を得ず事」と完全な漢文体で書かれていて、長屋のはっつぁん、熊さんや、我が百姓田吾作ドン等の洟垂れ小僧のものではない。

 一方、「女今川」の方はというと、「若き女、無益(むやく)の宮寺へ参り楽しむ事」を禁じている。禁じると言うことは、当時、若い女性にとって、宮寺参りは何よりの楽しみだったのだろう。
一方、武士の場合はこれに「定訓往来」と「算用」が加わるということである。

 この「庭訓往来」とは、室町時代、当代随一と評されてきた僧玄恵(玄慧)が編んだもので、その後、十一世紀後半から十九世紀後半の約九世紀もの間、盛んに編まれ広く流布した一群の初歩教科書である。
 今日残されているものだけで七千種をくだらないと言う教科書のベストセラーみたいなものである。

 中程度の身分の武家の間で手紙を交換し、その中で知識を広めてゆくと言う趣向で、その内容たるや、驚くほど精緻を極めている。

 これをみると、当時の建物構造、家財、職業、各地産物、食料、病気治療、知行所経営、武具等々に至るまで解説付きで分かる仕組みになっている。

 ところで、手習いと言うと読み書き十露盤であるが、「養育草」よると、「算用は、十歳になったら習うべきである。最近の生(なま)物知りの武士などは「算用は武士には必要なものにあらず」と考える者が多いが、これは間違い成り。士農工商ともに算用ができないと何事も成就出来難し。家に入るもの、家から出て行くものを把握致さざれば、必ず家を失う事必定也」と書かれている。

 算用とは、勿論算数であるが、武士の場合、算用をやるものを算用者と称し、身分軽き者とされていた。しかし、江戸時代後期では、各藩とも財政が逼迫し、算用者を重用するようになり、百姓上がりの勘定奉行まで出現した。これが、旧来の武家身分のものと軋轢を生ずる事態が起きている。

 「養育草」にも、「子どもは十露盤が早くから行うべし、人前で算用・金銀・利得・売買の事を言うのは見苦しいことなり」と言う考えが根底にあったことによる。

 はてさて、今にして、我が七十の手習い、江戸時代ならさしずめ、十にも満たない洟垂れ小僧の域にも至らないとは・・・。(08.08仏法僧)