サイバー老人ホーム−青葉台熟年物語

109.手造り日本!

 日本経済が不況に落ち込んでから久しい。これだけ長く不況が続くと、もはや好不況の問題ではなく、現在の状態が普通の常態と考えるべきかも知れない。

 昨年NHKの番組で中国の自動車産業発展の状況を紹介する番組があった。日本の自動車産業の発展の一翼に関わってきたものから見て、これはもはや脅威ということではなく、日本の自動車の時代は終わったと思ったのである。

 日本の自動車産業と中国の自動車産業の発展の過程には明らかに差がある。それは日本では自動車会社という大企業が主導する形で関連産業が発展してきて、取り分け下請けと親企業の二重構造があったのである。ところが中国では関連産業が急速に育って、その土壌の上に自動車会社が成長しようとしている。

 中国では改革開放経済で寧ろ国営企業を否定して民間の力を生かす方法が採られたことで、優秀な人材が先ず自動車関連産業に向かい、世界に通用する技術力を身につけたのである。

 自動車産業というのは総合産業であり、それだけに各国とも自動車産業の発展になみなみならない関心を寄せているのであるが、中国の場合、鉄鋼などの基礎資材やエレクトロニクスの面でも日本を凌ぐ状態のあり、この面から見てももはや日本の時代は終わったと考えている。

 その根拠としては人材である。人件費の安さや、国内資源などというものは何とか対応の仕方もあるが、それよりも十三億を越える人口を背景にした無尽蔵に近い人材である。これだけは絶対に対応できないことである。しかもその人材がかつての日本のように高度な労働意欲を持っているのであり、こんな国は国家制度でもなくならない限り出てきそうもない。

 バブル経済崩壊前「世界のサプライヤー」を自認していた日本で盛んに技術移転が叫ばれていたが、この頃から常に疑問に思っていたことがある。それは長い時間と費用をかけて培った技術を移転し、その先に何が見えるのだろうということである。

 企業単位で見た場合、技術移転により安い製品を国外から調達できるが、国内の製造機能はどうなるか、取り分けそこに働く労働者の雇用の創造はどうなるのかという疑問であった。

 勿論、企業が収益をあげることは国が豊になることでもあるが、その収益が移転先の国で、かつて国内でそうであったように、際限のないスクラップ・アンド・ビルドの再投資に向けられると言うなら問題である。

 今度のテレビ番組でも日本メーカーと提携した中国の工場の従業員が2600人、それに関わる日本の社員が僅か1パーセントである。これでは企業としての利益は確保できても日本人の雇用は創出されていない。

 勿論、国際競争力を失った企業は生き残れないし、世界はそのようにして発展してきたことも分かる。ただ、世界に通用する企業を目指してきた世代の一人とすればいささか複雑な心境である。

 然らばこれからの日本の物造りは絶望かといえばそうでもないと最近考えるようになった。大規模大量生産ではコストの安いところには太刀打ちできない。その代わり大規模大量生産でないものには日本人の持つ器用さと創造性で十分対抗できるのではないかと思っている。

 最近各地で見かける「道の駅」で販売される農産物や民芸品など、決して大量販売できるほどの量ではないが、求められる量に見合った供給はできるのである。ここで問題になるのは採算である。採算というのが問題になったのは大量生産大量販売になってからである。そのためには膨大な先行投資が必要であり、その先行投資を回収することによって始めて採算性ということが問題になったのである。

 一方、「道の駅」の産物に採算などはない。売れればそれが採算である。最近各地で出来ているNPO(非営利企業)がそれである。勿論、NPOといえども運営するためには費用はかかる。費用がかかる以上それに見合う収入がなくてはならないが、その収入が利益を目的にしたものでないのが営利法人と違うところである。だからと言ってこれらがGNPの大きな分を締めるといっているのではない。問題は心なのである。

 かつて日本には奉公とか徒弟制度のように働くことにより技術や商売の極意を習得する制度があり、ただ同然の労働を強いられていた。戦後これらは封建制度打破の元に全てなくなったが、昔から日本人はそうやって人々の絆を結びつけ、技量や出来栄えで成り立ってきたのである。

 今、女性の中で、ワーカーズ・コレクティブというのが注目されているらしい。分かりやすく言えば何人かの仲間と一緒に働くということであるが、ここには上下関係もなく知恵と時間を出し合うだけ、いわゆる手造りなのである。自分だけの労働には採算などもなく、働くことの価値を見出せれば十分なのである。

 大量生産大量販売の典型といわれる自動車でも富山県の光岡自動車のようなところもある。我々の生活もこの大量生産大量販売の恩恵で飛躍的に向上したが、真実求められる「よいもの」であれば規模の大小など問題ではない。

 最近の日本人は韓国などに比較しても創造力がなくなったといわれている。その原因は日本人の大組織への依存性にあるという。自分のよりどころを大樹の陰に求め、かつてのように徒弟関係、家族関係、地域関係に求めようとしないことが本来日本人が持っていた優れた創造性を喪失せしめた原因ではないかと勝手に思っている。

 では今後はどうかといえば、期待は大いにもてそうである。人の価値観を帰属する社会の規模や、ネームバリューに求めるのではなく、先人が何百年に亘って培ってきた日本人のDNAの中に受け継がれた技量と真心を商業主義に毒されることなく「ほんまもの」造りに徹する限り日本の生きる道は必ずあると思うのである。「頑張れ、手造り日本!」である。(03.01仏法僧)