サイバー老人ホーム

274.生計(たつき)4

 廃品回収には面白い商売があって、「蝋燭の流れ買い」と云うのがある。「挑灯(ちょうとう)・燭台等すべて燭の流れ余る蝋を買い集む」とある。

 挑灯とは、掲げる灯火と云う事で提灯の事で、当時これらの灯火に使われた蝋燭のとぼれた残りをかき集めて生業としているものもいたので、これをかき集めて、再び蝋燭を作っていたのだろうか。

 その他にも、「灰買い」と云うのがある。「京阪にては竈下炉中の余灰に米糠と綿核(わたたね)を兼ね買う。故に詞に、「ぬか・たね・はいはござい」。江戸は灰のみ買うなり。これは、市民自家に綿を繰り製せず。糠は舂(つき)夫の家にこれを買う。故に灰のみこれを買うなり」

 ただ、この灰や、糠はどのような用途があったのだろうか。今では畑の中和剤としての用途や、野菜などによってはあく抜きと云って、灰を混ぜて茹でることがあるが、江戸のど真ん中で竈の灰を買い集めるには、然るべく売り先のあったのだろう。

 ただ、これらを売り歩いて一家の生計が成り立ったとは思わない。当時の、棒手振りは、あくまで生計を支えるための一手段であって、商うこと自体が目的ではなかったのではあるまいか。

 即ち、日常の生活の中で、不足したから商い、余ったから売り歩いたのだろう。今の時代も、田舎の道をドライブなどしていると、ときどき眼につく野菜スタンドがそれである。初めから、営業として置いておくのではなく、余ったから置いておくのである。だから、採算などと云うものは存在しない。

 明治新政府の出現で、最も影響を受けたのは幕府家臣団ではなかろうか。すでにそれ以前においても、幕臣たちの窮乏状態は並々ならぬものがあり、加えて新政府移行により生活の拠り所であった、御扶持召し上げになったのである。

 しかし幕末下級武士山本政恒氏いささかもうろたえた風は少しも見当たらない。勿論、当面は時の藩主徳川慶喜のおひざ元岡崎城下に引き移ることになる。

 そして、廃藩置県のあった翌年明治五年に至り、浜松県等外四等を拝命し、同六年には牢上番を拝命し、二等捕亡吏を命じられている。この二等捕亡吏と云うは咎人の逮捕や、市中の巡邏などを掌るということで、江戸時代ではさしずめ奉行所の同心に匹敵していたのだろう。

 ところが、三重県庁から囚人を引き渡しの連絡があり、引き渡しを受けてのち、一人の囚人が縄抜けして逃走したのである。

 「直ちにその旨聴訴課へ開申し、捕獲の手配を為したが、終に跡を失い、行方相知れず、因って護送の不行き届きに付き、進退伺出したり」その結果、わずか一年で二等捕亡吏を免職になっている。

 そこで、急遽、人伝(ひとづて)に探し出した熊谷県(埼玉県)の暢発(ちょうはつ)学校(師範学校)の俗務掛(庶務)の仕事に雇われ、単身赴任して一族郎党を含めた家族を支えることになる。

 その後も新たに六人の子をもうけ、総勢男五人、女六人の子宝に恵まれ、明治二十八年に七十歳の天寿を全うしたエネルギーは何であったと云うと、絶え間ない挑戦であったのである。

 この御仁の経歴の中で、「事業」という一項があり、彼が経験した家事は、驚くことに「金唐革紙、米舂(つき)、網すき、指物、煙草切、大工、板屋根葺き、畳、桶、張子面、一閑張り、塗師、経師、縁、袴の仕立て、綴じ本、左官、植木屋、商業(小間物・荒物・手細工・下駄歯入れ・靴直し)」の実に二十四種にも及んだのである。

 職業として取り組んだのは、商業の五職種と張子面だが、残りは主に家内仕事として取り組んだものである。

 この中で、「米舂」とは、二宮金次郎や、黒沢明監督描くところの名画「七人の侍」で、百姓が足踏みで米を精米する場面があるが、これが「米舂」である。

 これが大変な重労働で、「山本山本政恒一代記」によると、「二斗臼に入れ、七百回搗き、糠立ちして、糠篩(ふるい)し、上白は更に五・六百回搗く。随分骨の折れるものなり、米舂雇えば三斗五升(一俵)一臼舂賃は三百文に一飯食せしむ、尤も一升も食すなり。右舂賃考えれば、自身骨を折るのも馬鹿馬鹿しく思えど、閑あれば可なり」と山本氏、涙ぐましい努力をされている。

 これ以外に、浜松在住時には、百姓仕事にも取り組み、米以外の三十種類もの野菜、雑穀の収穫を得るという多才ぶりである。彼が、動乱の幕末から明治を生き延びたのは、家計を助けるために、これらに取り組んだ結果によることは間違いない。

 昭和二十年八月十五日、日本は太平洋戦争に負けて、国民は等しく全てのもの失った。それでも第一次石油ショック後のトイレットペーパー程の混乱もなく、やがては世界に冠たる発展を遂げたのは、山本政恒氏同様にあらゆることに積極的に自らの手によって取り組んできたからに他ならないと思っている。

 それは、江戸時代から万民が受け継いできたDNAであり、日本民族の優れた特性であったのである。

 近年、アメリカのサブプライムローンに端を発した世界的金融恐慌により、日本も多大な影響を受けている。ただし、この影響は、明治維新や、終戦後の日本における混乱と比べたら、物の数に入らない。

 ただ、大きく変わるのは、日本においては、国民の生活の基盤たる農業が崩壊してしまっているということである。生きる上での最も基本である、貨幣を使わなくとも食べることに不安がなければ、その余の生活は創意工夫に寄って維持可能と思っている。

 先日、かの名女優岸恵子さんが、ある対談で、「貧乏って面白い」と発言されていた。あの岸恵子さんがである。その真意は、物やお金に頼らない生活というのは、様々な工夫を働かせて面白いと云うのである。

 最近になって、今から五十五年前の昭和三十年の春、私が高校三年生の時に伊勢・奈良・京都と車中泊二泊を含む四泊五日の修学旅行記が出てきた。この五日間に見聞したものを詳細に書き残したものを何冊かのノートの端にしたためたもので、かなり長文である。

 これを、幕末下級武士山本政恒氏の事業の一つ、「綴じ本」に倣って、製本にして、同級生諸氏に配布しようと思って取り組んだ。

 ところが、今の時代、こうした製本の道具等でもインターネットで探すと容易く見つかる。結局、その道具の販売屋(個人)を介して知った紙問屋や、ホームセンターから必要なものを調達し、A6版百十ページの旅行記を造り上げた。ただ、作り上げたかと云って高々三十部程度のものである。

 だからどうだと云うほどのものではないが、自分で詩を作り、句を詠む人はできれば自分の詩集や、句集を本にして残したいと思っているのではなかろうか。しかし、出版社や印刷会社を通した場合は膨大の費用がかかり、とても庶民に手の出る代物ではない。

 この自作の場合は、製本にかかった費用は、用紙一枚当たり裏表印刷でも十円にも満たない費用である。しかも、私の場合は、左手しか使えない障害があるので、三十部程度が限界であるが、五体満足ならばこれに幾ばくかの手数料を加えたところで、十分に要求に応じられるのではなかろうか。

 これによって、生計を立てることができるかどうかわからないが、生計に足しにすることは十分考えられる。

 最近、週末起業と云うのが注目されているらしい。この週末起業とは、サラリーマンが、週末になったら会社を辞めずに小資本でインターネットを利用して起業するもので、収入源を複数化し、勤務先からの自立を志向するということである。

 これぞまさしく、現代の棒手振りであり、この不況を切り抜ける道ではないかと思っている。

 今各地の漁村で、計画的に育ててきた魚介類が、外部の密漁者によって乱獲されているという話を聞く。また、農村では至る所に休耕地が広がり、手入れの行き届かない森林がジャングルと化している。

 この世界的不況に際し、農業や、漁業、林業などのかつての生業に立ち返れば、ワーキングプアーなどという馬鹿げたことから抜け出す方法が見えてくるのではなかろうかと考えていたら、政権が代わって、新政権がグリーン雇用というのをはじめるらしい。今荒廃する国土を再生するためには、幾らでも人手は必要ではないかとしみじみ思うのである。(09.11仏法僧)

庭訓往来:石川松太郎校注・東洋文庫
守貞謾稿「近世風俗志」:喜田川守貞著・宇佐美英機校注・岩波文庫
幕末下級武士の記録:山本政恒著。吉田常吉校訂