サイバー老人ホーム

273.生計(たつき)3

 また「竹馬古着屋」と云うのがある。「竹具の四足なるを担う。故に竹馬と云う。古衣服および古衣を解き分かちて、衿あるいは裡(うら)、その他所要の古物を売る。」

 江戸時代、新しい服を新調するなどと云うのはごく稀で、普通は、古くなった衣服を張り替えして、仕立てなおしたり、また、染め屋で染め直して使っていた。私の子供の頃でも、張り板というのはどこの家庭にもあり、主婦の主要な家事であった。

 それでも使えなくなった場合は、布を細く裂いて、機(はた)で横糸として織り込んで厚手の布にして、敷物等にして使っていた。私の子供の頃でも、炬燵掛けなどは、母親が織ったこの布を使っていたが、織り込んだ布が、所々で色が変わり、結構きれいだった。

 江戸の町では、富沢町(現中央区日本橋)は有名な古着屋の町で、「毎朝晴天の日は大路に筵を敷き諸古衣服を並べ、また店にもこれを並べ、同賈(か)(店)および諸人に之を売る。」

 この富沢町の場合は、どちらかと云えば上等な品が多く、浅草橋から神田川右岸をさかのぼった柳原は、あまり上等でないものを扱う屋台が並んでいた。

 この「竹馬古着屋」は、それよりも、もう一段下がった物を扱っていたのだろう、「古衣服及び古衣」を解き分かち、我が家で使っていた炬燵掛け一歩手前ではなかったろうか。

 「文庫売り」と云うのがある。文庫と云うから本を売るのではなく、「籠製筥を紙張りにし、黒漆を塗りたるを云う。女子小裁ち等を納るの器とす」と云うことで小物入れである。

 籠製の箱に、古紙を張り、それに黒漆や柿渋を塗ったもので、これ以外にも「渋紙敷き衾(ふすま)売り」・「渋紙売り」・「銭茣蓙(ござ)売り」など古紙を材料としたものが目に付く。

 江戸時代、紙と云うのは貴重品で、また、和紙は非常に丈夫であった。したがって、古紙を様々な用途に使ったのだろう。

 永井荷風の作といわれる、「四畳半襖の下張」という春本は裁判にもなり有名だが、私の子供の頃でも、襖や、屏風の補修に古文書が張られているのが目に付いた。

 日常、米などを研ぐ時に使う笊は、暫くすると、古くなって穴があいたりする。こうなると使い物にならないので、笊全面に古紙を張り付けて、張りぼてと云って使っていた。
ある時、私の兄の奥さんの実家で、貴重な古文書が、笊に張られているのを見つけ、大いに嘆いたことがあった。

 江戸時代と現在と比較して、なんと云っても修理屋が多いことである。日本人は、昔から物を大事にする国民で、様々の物を修理して使っていた。これらの修理は、主に自分で行い、できないものは修理屋が回ってきて修理をしていた。

 「守貞謾稿」にも十七業種が載っており、そうした修理屋は、様々の口上と、独特の道具を使い、驚くほど巧みに修理をしていた。私の子供のころの鍋釜はほとんど鉄製であり、今のようなアルミやステンレス製のものなどなかった。

 鉄製と云っても鋳物であり、従って打ちつけたりすると割れたりひびが入る。物のたとえに、「破れ鍋にどじ蓋」などとあるように、割れてひびの入った鍋・釜を修理する「鋳鉄(いかけ)屋」と云うのがある。

 「銅鉄の鍋釜を修理す。ふいごを携え来て即時に之を為す。」ひび割れの周りに粘土で鋳型を作り、そこに真鍮等を溶解し、流し込むのである。こうした職人仕事は見ていても少しも飽きない。職人の後に日がな一日ついて回り、飽きもせず眺めていた。

 「鋳鉄(いかけ)屋」と同じようなもので、「瀬戸物焼き接(つぎ)」と云うのがある。「瀬戸は尾張国地名、専ら陶器を製造す。故に、今俗、陶器の惣名を瀬戸物と云う。昔は陶器の破損皆漆を以て之を修理す。寛政中、初めて白玉粉(米粉)を以て焼き継ぐことを為す。今世は貴価の陶器及び茶器の類は、再び竈に焼くことを好まず。故に漆を以て之を補し、金粉を粘す。日用陶器の類は、焼継を専らとす」。

 今でも、骨董などでは、金粉を粘したものは見たことがあるが、白玉粉を使って、焼き継ぐというのは見たことがない。しかもこれを棒手振りでどのようにやっていたのか、ただ、当時はそれだけ瀬戸物は貴重なものだったのだろう。

 修理屋の中で面白いのは、「羅宇(らう)屋」と云うのがある。「烟管(きせる)の竹、らうと云う。三都とも烟管首尾(全長)ともに長(た)け八寸を定めとす。七寸を殿中と云う。らう価八文、長きものは価十二文以上」。

 私の子供の頃でもらう直しと云うのが回ってきた。その頃は、道具を担ぐのではなく、専らリヤカーに道具を積んでいたが、その道具からピー、ピーと音がして、細い管から湯気が出ていた。

 これを使ったことはなかったが、この湯気を烟管に通すと煙の通りが良くなると聞いて、父親の烟管の雁首に水を入れ、それを囲炉裏の火であぶるとやがて沸騰してくる。そこで吸い口から勢いよく吹くと、中に溜まった脂(やに)がスポッと採れるのである。それにしても、羅宇竹が、八文から十二文、こうした修理屋は大方このような値段だったのである。

 ただ、子供のころから回ってくる修理屋について回ることにより、様々な修理方法を学び、自分でできる物は大方自分で修理するようになっていったのではなかろうか。

 最も江戸時代を特色できる棒手振りの中の廃品回収が六業種ある。その代表的なものが、「紙屑買い」である。「反故(ほご)及び古帳紙屑を買い、また兼ねて古衣服、古銅鉄・古器物をも兼ねて買う」となっていて、今と差ほどの違いはない。

 ただ、面白いのは、「京阪の詞(ことば)「てんかみくず、てんてん」と云う。てんてんは、古手の略、紙屑・古銅鉄の類は、秤にかけて買うなり」

 ところが、おなじみ「東海道中膝栗毛」で、弥次喜多、大阪天神橋通りを出たところで、京で買った弥次郎兵衛の雪駄の鼻緒が抜けてしまった。

 弥次郎「しまった、京のものは油断がならねえ。豪勢に請け合って売りゃあがって、いまいましい」とつぶやく向うより、紙屑買い来る。

 「「でい、でい、でい、でい」これは大阪にては紙屑買い、斯くの如くでい、でいと呼んで歩くを、弥次郎兵衛は江戸の角で雪駄直しと思い呼びけり。」

 「でい、でい」とは、江戸で雪駄直しの事で、弥次郎兵衛は、紙屑買いを雪駄直しと思いこみ、一方、紙屑買いは差し出された雪駄を売ると思い込み、双方でひと悶着を起こすという筋書きである。

 この、でい、でいとは、「手入れ、手入れ」と云うのが訛ったということであるが、聞きようにより、「てん」とも「でい」とも聞こえたのであろうか。こうした小商人は、それぞれ独特な呼び声で売り歩いていたのだろう。(09.10)