サイバー老人ホーム

272.生計(たつき)2

 そこで、「棒手振り」が出現することになる。然らば、「棒手振り」には、どのようなものがあったかと云うと、それが並大抵なものではない。「棒手振り」といっても、すべて天秤棒で担いでいたわけでもない。

 「守貞謾稿」によると、まず、一心太助でお馴染みの、鮮魚売りなど食料を担いで売り歩いていた職種はざっと数えて二十四職種もある。この中には食物に入るかどうかわからない煙草売りなどもあるが、菜蔬売り、油売り、漬物売り、飴売り等はおなじみだが、中には赤蛙売りなどと云うのがある。

 「赤蛙および柳虫を売る。小筥(はこ)等に入れ、風呂敷包にて負い来る。柳虫は活きるを売る。江戸は、赤蛙、柳虫、まむし等、皆活きるを売り、買う人あれば忽ちこれを裂き殺して売る」と書かれている。

 まだ私が小学校一二年生の頃、学校の帰りに上級生に連れられて近くの池で赤蛙を捕まえて、焼いて食べたことがある。当時は、極度に食糧難の時期であり、それなりに美味かったような記憶がある。

 ただ、柳虫とはいかなるものか知らない。そこでインターネットで調べてみると、「川沿いの柳の樹液をたっぷり吸収させた一品です。【内容量】 1ビン:14匹入【対象魚】 イワナ・ヤマメ・アマゴ・ハヤ・マス」と云うことで、どうやら今は釣り餌であるようである。

 ただ、これを当時人が食べていたかどうかは定かではないが、「棒手振り」の中に、「蝗(いなご)蒲焼売り」と云うのがある。今では蝗が食べられるという事はだれでも知っていることであるが、これを担い売りしていたとは知らなかった。案外、柳虫も柳の樹液をたっぷりと吸収した美味なる虫であるのかもしれない。

 その他、湯(ゆ)出(で)豆(まめ)売り、湯出卵売りなどは、前栽の豆や、庭に放し飼いした鶏が産んだ卵を売り歩いたもので、とても大店の扱うような代物ではない。

 また、松茸売りと云うのがあって、「江戸は松茸甲州より出るのみ、稀なる故にこの商人これなし」と書かれている。当時も、松茸と云うのは、高根の花だったかと思ったら、幕末下級武士「山本政(まさ)恒(ひろ)一代記」に面白いことが書いてあった。

 山本氏、大政奉還後、遠州浜松舘山寺に旅行した折、旗本大沢右京大夫の領地堀江に松茸狩りに行った。

 「堀江松茸積み出す、実に驚くほど夥しく多いなり。旅店一軒あり、因って同店にて松茸色々に料らせ酒食し、一泊したれば、松茸の匂い鼻につき、最早飽きたれど、僻村の事故他に食すべきものもなく、余儀なく茶漬けを食し寝たれども、土産に持ち帰らんとせし松茸枕元へ置き、室内へ薫り籠り、愈々両人とも閉口せり。」

 当時はある所には鼻に付くほどあったのだろうが、松茸はその土地の領主への献上品に使われ、家老と雖も、無断で松茸狩りをしたかろうが罷免された例もある(仙石家)。

 食料にもまして多いのが、生活用品で二十七業種である。まず、清掃用の「箒売り」と云うのがあって、箒には、竹箒と草箒があり、何れも子供のころ作った記憶がある。

 「竿竹売り」は今でもおなじみだが、「衣紋竹売り」と云うのがある。今でいうハンガーの事であるが、これを売り歩いていたとは知らなかった。

 「環魂(かんこん)紙(し)売り」と云うのは、「江戸にて浅草紙と云う。漉き返し紙なり。漉き返し紙は、紙屑を再び漉き返すなり。価大略百枚百文。簣(あじか)(担い用具)にて担い廻る。厠(かわや)紙・鼻紙等に用ゆ」と云うことで、私の子供の頃でも見かけたかなり色の黒ずんだ粗い紙である。

 最近は、町内で取り纏める所も多くなって、あまり見かけなくなったが、つい何年か前までは、「チリ紙交換」云いながら回っていた。

 ただ、私が実社会に入った昭和三十年代の初期ごろまでは、雪隠の紙と云えば古新聞であった。

 江戸時代、「大略百枚百文」と云うのはかなり高価であり、今のような新聞紙もない時期に、用を足すのに、一枚一文の「環魂(かんこん)紙(し)」を使いこなしていたのだろうか。なお、簣(あじか)とは、肩で背負う箱のようなものである。

 いかにも江戸時代を思わせるものに「附け木売り」と云うのがある。現在、家庭でガス器具に火をつける物は、殆ど電気着火式になっていて、ひところはやった圧電着火式もあまり見かけなくなった。

 それ以前には、ガスライター式などもあったが、着火と云えばマッチであった。このマッチと云うもの、漢字で書くと燐寸とかき、明治時代には我が国の花形輸出商品でもあったのである。

 ところが、第二次大戦末期には、このマッチにも事欠いたことがある。それは空襲によりマッチの製造工場の半数が失われ、その上、マッチの原木が入手困難となったのである。

 私の子供の頃でも、農家で、畑で採れた野菜等を隣近所に配ると、そのお返しに野菜の入っていた笊に「附け木」をいくらか入れて返すのが習慣になっていた。

 この附け木とは、「金石(火打石)より火を出し火口に伝へ、再びまたこれを付け木に伝う。板、柿(こけら)(薄板)の頭に硫黄を粘(ねば)したる物なり」ということで、種火から薪などに火を移す物である。

 更に江戸時代特有と云えば、「銭緡(さし)売り」と云うのがある。これは当時通用していた寛永通宝を百文単位(実際は九十六文)に穴に通して綴じる紐である。「京阪は所司代邸・城代邸等の中間の内職。江戸は火消役邸中間の内職に之を製して市民に売る。大略十緡を一把とし、十把を十束とす。一束価およそ百文を与う。」

 この緡は、中間(ちゅうげん)ばかりではなく、武家の内職に作られたということで、当時の武士はまさに赤貧芋を洗う如し状態であったことが伺える。(09.10仏法僧)