サイバー老人ホーム

271.生計(たつき)

 昨年(平成二十年)、アメリカのサブプライムローンに端を発して、世界同時不況に突入した。この影響は当然日本にも及び、真っ先に影響を受けたのは、契約社員と云われる人たちである。次に、新卒者たちが、一部は採用を取り消され、また、多くは就職氷河期に晒されることになる。

 私が実社会に出た頃も同様で、朝鮮動乱の終結で、ようやく大戦の痛手から立ち直りかけていた企業も再び深刻な不況に突入しようとしていた。

 しかし、同じ不況でも、今回ほど深刻ではなかったような気がする。それは、地方や、民間の中でも何とかなると云う様な気分があったのではないだろうか。その根底には、今ほど行き過ぎた市場経済に先鋭化しておらず、且つ、農村では生業の農業は健全とはいえないまでも、明日の食すらままならないほど疲弊していなかった。

 また、都会地で、一生懸命に働けば、食べること程度は何とかなったような気がした。 しかし今回の不況で住む所は勿論、生命の根源たる食うことすらまともにできない人々がこれほど多く発生したのは、幕末でも飢饉のとき以外はなかったのではなかろうか。

 確かに、江戸や、大阪などの大都市では、巨大商業が台頭し、資本主義が萌芽の時代を迎えていたが、根本は、日本全国が全て匠の時代だったのである。

 お馴染み寺子屋教科書「庭訓往来」四月の条に、日本における内匠(たくみ)について、「鍛冶、鋳物師、巧匠(細工師)、番匠(木工大工)、木道、金銀細工、紺掻き、染め殿、綾織、蚕養、伯楽(馬飼い)、牧士(牧童)、炭焼き、樵夫、桧物師、轆轤(ろくろ)師、塗り師、蒔絵師、紙漉き、唐紙師、笠張り、蓑売り、廻船人、水(か)主(こ)、梶取り、漁客(すなうど)、海人(あま)、朱砂(辰砂)、白粉焼き、櫛引き、商人(あきんど)、酒沽(さけうり)、弓矢の細工、葺き主、壁塗り、猟師、狩人」と挙げている。

 即ち、日本人であれば、必ず一芸に秀でたものを持っていたのである。これらは、当時(室町時代)の人々がそれぞれに取り組んできた生業だったのだろう。

 これもお馴染み「守貞謾稿」には、「大工・左官・瓦工・手伝人足・鳶人足・塗師・鋳物師・縫箔師・金物師・筆師・研ぎ師等限りなきなり。

 因みに云う、足利幕府頃より、職人の名及び某師と云うこと専らなり。「七十一番職人尽歌合」にて知るべし。けだし、職人と雖も、工のみに非ず。諸工商巫(しょこうしょうぶ)匠(しょう)ともに生業ある者、皆職人と云いしなり」と書かれている。

 即ち、日本人は長年にわたり、自然に身に付けたそれぞれの匠の手で支えあった自給自足の生活を送ってきたのである。したがって、これらの中に、儲けるという観念はなく、いかにして、自分の技を世間に認めてもらうかということに主眼が置かれていた。

 それでは、江戸時代に生計と云うのをどのようにして支えてきたのであろうか。まず、江戸時代の身分制度で、士農工商と云うのはよく知られている。この中の農、すなわち漁業、林業を含めた農民たちは、自然を相手に、自らの労働によって得られた収獲により生計を維持してきたことは分かる。

 次が、商業であるが、身分的にはもっとも下等とされていたが、三都と云われる京都、大阪、江戸と大都市が出現するとともに、急速に発展していった。勿論、地方に於いても城下を中心に、宿駅制度の整備とともに発展していった。

 しかし、何と云っても、江戸の発展は目を見張るものがあった。大江戸八百八町などと云われるが、延享四年(1792)には、一千六百六十八町あったと云われ、今で云う箱物を日々破壊と建築を繰り返していたのであろう。

 当時の人口は、幕府は治安上の理由から極秘とされていたが、「守貞謾稿」によると、米の消費量から逆算して、「享保中(1716−1736)、武家及び僧巫医工商その他の遊民ともに大略二百万人とす。今世(天保嘉永)はおおむね三百万人、既に百万人を増す」となっていて、かなり正鵠を射た推測ではないだろうか。

 ところが、江戸三百万都市と云われる中で、武家と僧巫というのは百万と云われており、しかもこれらは、町奉行や、勘定奉行以下の実践派を除くと、殆どが非生産人員であった。

 第二次大戦前、非農家という言葉が多く使われていたが、武家及び僧巫と云われた人は、生産にはほとんどタッチすることもなく、幕府の礼儀三百威儀三千といわれる作法の世界に毎日を過ごしていたのである。

 従って、江戸市民は、これだけの非生産人口の生活を支えるために、全体の六割の市民は必死に働いていたということになる。

 ところで、江戸時代、どのような店がどれくらいあったかと云うと、「元禄十年、官命して戸数十一戸に定む」となっていて、幕府は問屋組合と云うものを設置し、加盟者から運上金を徴収していた。

 その後、組合は徐々に増加して、文化年間には、「通計、五十七組合、千九百九十五戸、上納金合わせて一万二百両なり」となっているが、三百万市民の江戸で、この程度で足りるはずもない。

 そこで登場したのが、魚や野菜などを天秤棒で担ぎ、売り声を上げながら売り歩く「棒(ぼ)手振(てふ)り」という生業があったことはよく知られている。

 これらが、商業と云えば商業だが、現在考えられているような商業ではない。江戸時代にはかなり付けとか掛け売りという信用取引が発展していたが、その中に「日一文」と云う金融があった。

 「守貞謾稿」によると、「晨(あした)に銭百文を借り、夕べに百一文を還す、故に百一と云う。一、二百文よりおおむね一貫文を借り、諸物を担い売るの徒(やから)は、晨(あした)に四、五百文借りて、あるいは菜蔬その他小価の物を担い担い廻りて一日の費えを得て、晩に四、五文を加えてこれを還すこと、難(かた)きにあらず」

 江戸に於いて、大店の使用人と云うのは、今で云う、いわゆるエリート集団であり、これ以外に様々の職種の棟梁などは、技術者集団であり、江戸二百万を超える一般の市民に多くは、「日傭(ひよう)取り」と云われる、手伝い人足であった。

 「守貞謾稿」によると、「江戸に云う仕事師と同じ者なり。一日日雇い銭、皆必ず自食にて二百八十文を定めとす。平日生業に出るには幣衣(木綿)刺子等を着し、腹当ては江戸風のものを着す。」

 即ち、腹当て、股引、刺子半纏を着した男たちが、いたるところで行われていた住宅建設や、土木工事に駆り出されていたのだろう。ただ、これらの仕事は雨が降ったら仕事にならず、たちまちのうちに飯の食い揚げとなる。

 当時、もっとも貧しい層の米の買い方として、百文買いと云うのがあった。文字通り百文で米を買うのであるが、総じて一升(十五キロ)にもならなかったのではなかろうか。十五キロと云えば、現在であれば四人家族でも十日も持つが、江戸時代の人は驚くほど米の飯を食べた。大人一人が、一日五合も食べており、日傭取りの手間賃では生活してゆく上で並大抵ではなかったのである。(09.09仏法僧)