サイバー老人ホームー青葉台熟年物語

159.大いなる単調1

 折から接近してきている大型台風六号の前触れだろうか、急に降り出した小雨の中の旅立ちとなった。ここ1週間は梅雨の中休みなのか雨が降らなかったためか雨後の道路から焼け焦げたような地面のにおいが立ち込めていた。

 西宮北インターで中国縦貫道に乗り、間もなく舞鶴道に入る。ここでも今年に入って装着したETCの優越感を満喫する。このETC装着まではかなり面倒な手続きを踏むのだが、装着後の便利さは想像以上のものである。

 特に私の場合右麻痺という障害があるため、入場の際左側にあるチケットを右手で取らなければならず、これが思いのほか大変なのである。多少躊躇しながらETC専用レーンに入り、目の前でゲートがさっと開く様はなんとも爽快であり、取り分け一般ゲートが込んでいるときにはたまらない優越感がある。なんとなく政治家などが地位にしがみつきたくなる心境が分かるような気がしてくるから不思議である。

 雨後の高速道路を余裕を持って走り、1時間余りで舞鶴東ICに到着、恐ろしく便利になった。途中フェリーターミナルへの入り口が分からず通行人に尋ねたがほぼ順調に10時前には埠頭に到着した。

 ただ、チケットは前もってインターネットで購入していたので、簡単に済むかと思っていた乗船手続きに意外と手間取り、車との間を2回往復することになる。それでも係員は非常に親切で、取り分け障害者に対する配慮は申し分なく、乗船なども混雑する一般の人より優先してもらい、しかもエレベーター前に駐車できたのは大いに助かった。

 出港も予定通り11時30分、気が付かないほど静かに岸壁を離れた。
この舞鶴という港は戦前生まれの人には誰でも何らかの感慨を持っている引き揚げ船の入港地である。もう何年になるだろうか、関西に来てから始めた油絵のスケッチ旅行に来て最初に訪れたのがこの引揚げ記念館である。

 この記念館には不思議な雰囲気というより幽鬼が漂っているように感じた。それは引き揚げ船に乗ってようやく辿り着いた母国の第一歩の喜びや、無念の遺骨での帰還であったかもしれない。
 更に遠い異国の丘で、望郷の思いを募らせ無念の涙で逝った人々の思いや、この岸壁に肉親の帰還を今か今かと待ち望んでいた肉親の人々の思いがすべて凝縮されて一種の幽鬼を発しているように思った。

 翌朝、目を覚ましたのは五時少し前で、すでに夜は明け離れていたがまだ日の出には間があるようであった。空はうっすらと雲が掃かれていたが、雨は降っておらず、窓には憧れの一直線の水平線が広がり波も穏やかである。

 船室はユニットバス・トイレつきのツインベッドだが十分な広さであり、快適である。再びベッドに横になったが、船の揺れはまったくといってよいほど感じない。

 次に目を覚ましたのは「ただいま能登半島沖を通過しています」という船内放送で目を覚ました。このときには窓の外に雨のしずくの跡があり、波頭も僅かながら白く砕けていたが、船の揺れは気になるほどではなかった。

 佐渡沖の通過は九時頃であったろうか、雨雲はいっそう厚く垂れ込め、島影はおろか海と空の境目もはっきりしない空模様になっている。
 佐渡は四十代の頃単身赴任していた福島の工場の連中と一度来たことがある。あれから何年たったのであろうか、第一次石油ショック後の悪戦苦闘した当時の主だった仲間たちの訃報を次々に聞かされる年齢にお互いが差し掛かっていることになる。

 続いて11時過ぎに粟島沖通過の船内放送があった。この粟島という島は新潟県村上沖にあるケシ粒ほどの島で、ずいぶん昔になるが新潟沖地震の震源地である。この地震があった翌年に独身寮の悪友たちとこの島に旅行に来たことがある。

 このとき上野駅で周遊券を買っている間に仲間たちと離れ離れになってしまい、発車間際まで必死に探したが見つからず、さりとてそのまま列車に乗ってしまってよいやら判断が付かず、結局乗り過ごしたのである。しかも私の思い荷物は連中に預けて有ったのである。列車のテールランプが遠くに消えた後には悪友たちも荷物もホームには残されていなかった。

 想定できるのは予定通りの列車で旅立ったということで、予定では上越線で新潟に出て羽越線で村上に出る予定である。これからが私の腕の見せ所で、私は東北線で米沢で米坂線で坂町に出て村上に出るコースを瞬時に選んだのである。

 村上に到着したのは連中より少し遅れる予定であったが、粟島に行く船にはまだ間があるはずである。ところが村上港までタクシーを飛ばして付いたときはまだ連中は到着していなかったのである。
 その後、連中と無事合流して粟島まで小さな連絡線で渡るのであるが、港が地震で使えないため「伝馬もってこい!」と怒鳴る威勢のよい漁師の怒声にあおられ木の葉のように揺れる伝馬船に乗り移って上陸したのである。

 粟島では自家発電のため夜九時になると節電のため「何時まで起きてる!」と怒鳴られるなど数々の思い出がある忘れられない青春の出来事であった。

 男鹿半島沖には夕食の前の6時前に通過した。相変わらず雨は強くはないがキャビンの窓を濡らしていて、デッキに出ることは出来ない。
 それぞれの土地にはそれぞれの思い出があり、取分け思い出に浸っていた訳ではないが、窓の外には横一線の水平線が際限なく続くが退屈する事はなく寧ろ何にも勝る楽しみである。

 凝視する必要のない水平線の限りない単調さは、様々な出来事が複雑に絡み合う世相の中でたとえようのない魅力である。この日は余り天候がはっきりしなかったため、天と海の境目さえ曖昧である事が何よりよい。明日から始まる大いなる単調さに期待は益々募るばかりである。(06.20仏法僧)