サイバー老人ホーム

350.楽しい事

 前回の「ふてくされるな50代」を書いていて、はて?そういう私はどうだったかとしみじみ考えてみた。私が定年になって、その身の振り方などはこの「孤老雑言」のどこかで何回か書いているので、今更持ち出す積りもないが、ただ、その後の人生はどうだったかと云うと、文句なく楽しい老後であった。

 これも何度か取り上げたが、だからと云って、しこたま財をため込んで悠々自適の生活を満喫しているなどと云うものではない。云わずと知れた年金暮らしだから、限られた生活費の中で歳相応に老け込んだカミさんとそこそこに暮らしているだけである。

 然らば、それで楽しい余生といえるかと云うと、結構満足した生活をしているつもりである。勿論、今どき衣食住で困るほどの生活と云うのは如何なる過去を送って来たのか想像にも値しないが、総じて我が家の前世は貧困の中での明け暮れだった。

 さすればそれでもって何故幸せを感じるのかというと、意識して楽しい事をやるように心がけたという事以外にない。それでは何が楽しいかという事であるが、楽しく思える事なら何でもよいという事である。ずいぶん安っぽく思われるかもしれないが、用済みとなった老人が日々楽しく暮らすには、「楽しい事」を見つけ出すのが肝要である。

 前回の「ふてくされるな」で童門さんは、50歳を過ぎたら「公」を考えなければならない、と云われているが、人間その国に生きていれば、否応なしに「公」の影響を受けていることになり、身近なところは隣近所であり、もう少し範囲を広げれば、町内自治会と云う組織に加わり、何かと「公」の影響を被る事になる。

 ただ、この「公」であるが、ややもすると若かりし頃よりいやと云うほど味わった野心のぶつかり合いに翻弄される事がある。この自治会の中でのぶつかり合いは実社会と違って統制と云うものの歯止めがないから時によって手におえない事になる。取り分け実社会において統制という行為に不慣れな人間が統制に当たった場合、その地域全体をその影響下に引き込むことになり、「公」などと気取っている場合ではなくなる。

 童門さんは、何故「公」を取り上げたか分からないが、今時、「公」を以って幸福感を自覚できることなどあるのだろうか。3月18日付の朝日新聞朝刊の「天声人語」に、社会学者上野千鶴子さんの「かさばらない男」と云うエッセーの中に「男はどちらかと云えば、自分を実力以上にかさばらせて見せたい動物だ」と書かれていた。

 まさにその通りであり、各地にある自治会は行政組織の最末端組織でもあるが、運営に当たっては何かと行政の指導を得ている。歴史的に古い町は自治会運営に長けた人が順送りに担当し無難に運営しているが、我が街のような昭和四十年代以降、土地住宅ブームによって各地に出現した新興住宅地は、その当時の入居者は年齢的にも、社会的にもほぼ肩を並べる人達の集合であり、その意気に任せて切磋琢磨して、と云えば気前が良いが、至る所でぶつかってきた同志である。

 その初代目がそろそろ終焉を迎える時期になって、今度はその「かさばる」子弟の代に移り、各地の自治会に様々なトラブルが生じている。

 まず、自治会への入会の拒否である。日本人が日本と云う国を拒否するなどはあまり聞いた事も無いが、町内住人が自分の住む町への参加を拒否するという奇妙な現象が起きている。いやだったら出て行けばよいのであるが、そうではない。それでは、自治会費を払いたくないからと云うわけでもなく、ただ、自治会活動に参加したくないだけの事である。

 これではとても「公」への参加などと悠長に考えている場合ではない。たまに巡り、巡って、自治会の役員会に顔を出すのは平均寿命が延びて生き残った高齢化した往時のご婦人に交じり、血気盛んな不慣れな「かさばる男」が現れて、この時とばかりに強引に押しまくるから手におえない。

 加えてかつて行政が主導した自治会の主要行事であった盆踊り等の自治会活動の華は今の住民にはマッチしなくなっている。しかも、その準備に駆り出され、興味もない行事に動員される苦痛を考えたら自治会などに加入したくないと思うのは当然である。

 従って、童門さんが述べられた「会社にとっても、社会にとっても良いことは何かを考える」「公」と云うのが自分は勿論、世間全体の幸せをもたらす存在であるか甚だ疑問である。

 私は、「公」と名の付く中に無意味だとは云わないが、「楽しい事」などは存在しないと思っている。これらの行事は、大方、過去からの踏襲であり、過疎化と、高齢化の進んだ今の自治会には全く適合していない。それならばどうすればよいかという事になるが、相手が動かないのでは自分で考える以外にないと思っている。だからと云ってそれほど難しい事ではないが、老いる前に自分が気に入った趣味を持つことである。

 何だ、そんな事かと侮らないでほしい。誰でも多かれ少なかれ趣味と云うものは持っているのではなかろうか。趣味が豊かであるかどうかで老後の生き方が根本から変わる。ただ、これに実益を絡めようとするから楽しみが喪失するだけで、趣味と云うのはあくまでも自分だけの楽しみで、時により実益を生じたのはもっけの幸いと思っておけばよいのである。

 尤も、趣味にもいろいろあって、取り分け男が好む勝負事のたぐいは時により楽しみであるが、やがては楽しみから後悔に変ずる可能性があるので早目に手を引いた方がよい。
 従って、出来るだけ自分の手元や思考によって生み出したものが「楽しい事」に繋がり、又振り返ってもかつての「楽しい事」を思い出としていつまでも楽しみを引き継ぐことができる。

 ただ、「楽しい事」と云っても、一人でやっていても限度がある。これを同好の人と共有し合う事によってその楽しみは参加者の人数以上に広がり、更に、様々の趣味の人と統合すれば更に楽しみは倍化する。

 ただ、人数が増えれば、それを運営するための組織的な資金、計画、行動、分担等が必要であり、こうなると、「かさばる男」が出現し、自治会の二の舞になりそうだが、かつてこの国をここまで発展させたのは、国民が総力を挙げて取り組んだ営利法人化(会社組織)であった。
この取り組みに全力を挙げて支えてきた今の高齢者を振り向ければいいわけで、非営利法人のNPOであれば、「かさばる男」の出番も無くなる。NPOは「特定非営利活動促進法」別表に定める20項目に該当する事業であれば、何でもよく、個人の趣味の範ちゅうの楽しくやれることなら事なら大概は該当する。

 このNPOの精神を以って、NPOとしての統制に随えば、そこから生まれた「楽しい事」は世代を超えて穏やかに引き継ぎ、しかも「私」は勿論、「公」にもその余禄は及ぼすことが可能である。今、老いの一徹を振りかざし、どの様な「楽しい事」があるか、働きの鈍くなった頭脳を絞りながら取り組んでいるのである。(14.05.15仏法僧)