サイバー老人ホーム

291.旅行けば〜6

 二十四日、この日朝から終日曇り、和田峠(諏訪市)より二十八丁手前の西餅屋村という立て場(休息場)にて名物餅を食い、また峠より反里ばかり東に向かって、東餅屋村にて昼の支度をしようと、家々に聞き合わせたが、何れも冷や飯に菜の雲助の食いものばかりで誠に不味い。

 仕方なく和田宿(小県郡和田町)にて昼を遣い、望月宿の手前の笠取り峠で餅を食い、初めて浅間山を見る。その夜、望月宿(佐久市)まで来て宿る。

 和田峠が、諏訪と佐久地方の分岐点であり、分水嶺でもある。そして、佐久地方がわが故郷であり、帰省の際、何度となくこの峠を越えていたのである。それにしても、いきなり雲助の食いものばかりとは、いささかムッとする面持ちである。

 この御仁、その夜、へこりが出来て灸を据えたが誠に気分が悪く、薬を煎じて飲む。このへこりとは、シコリの事だろうか。

 二十五日、朝より終日晴天、望月宿より岩村田宿(佐久市)まで駕籠に乗り、追分宿(北佐久郡軽井沢町)の一里余り手前で、蓮根の油揚げにて美醂酒一杯呑み、碓氷峠にて飯を食い、そこから難所を越えて坂本宿(群馬県安中市松井田町)に泊まる。

 この日は終日、驚くほどの健脚でわが故郷を通り過ぎた事になるが、この地がとりわけ蓮根の産地だったと云うことは聞いたことがない。

 二十六日、坂本(群馬県安中市)より、安中宿(安中市)の一里ばかり手前の八本木村(安中市)にていも饅頭の油揚げを食い、安中で昼飯を食い、高崎宿より三十丁ほど手前の八幡村にて、瓜もみにて焼酎を飲む。

 旅の先行きも見えてきて、俄然、食欲も増してきたのだろう。倉賀野宿(高崎市)の少し手前、勝沢(不明)と云う所にて、雲助に酒手を遣る。

 この当時、武士もいたって生活に困窮しており、「東海道中膝栗毛」にそれを伺わせる次のようなことが書かれている。

馬子「時に旦那さま、お荷物はこれに置きます。お小付(添え荷物)がちょうど五つ、」

侍「その貫緡(一貫文を緡に差した)はこれへたもれ」

馬子「モシ旦那さま、お願いがございます。どうぞお酒を、一杯いただきとうございます」

侍「遠慮の要らないことじゃあ、勝手に飲みやれ(中略)」

馬子「ハア、旦那があがらずとも、ハイ、どうも、いただきとうございます」

侍「はあ、解せた、お身酒手をくれと云うのじゃな、イヤ、まかりならんぞ。道中御定法の賃銭ども、相払って罷り通る。別に酒手なぞという事は、決してならん事じゃ」

馬子「さようではおざりますが、どうぞそこを」

侍「イヤ達ってとは云わば遣わそうが、領収書(うけとりがき)をしやれ、身共帰国の節、問屋どもへ相届ける。」

馬子「いったい輕尻のお荷物には、重すぎるからどうぞご了見なされまして」

更にやり取りが続き、八文の酒手を不承々々差出す。


 この日、新町宿(高崎市)で泊る。この日漸く山を離れ、昼後は火降る如く暑気強し。山越えがようやく終わり、関東平野に入るや否や猛烈な暑さが覆ってきた。

 二十七日、新町宿より、深谷まで駕籠に乗り、そこから膳奉行の叔父様が乗り、新町宿の先、小嶋村(不明)と云う所にて、お歌吐乳の夢を見る。叔父様も疲れたのだろう、駕籠に乗ったまま、お歌吐乳の夢を見たと云うことだが、はて、どのような夢であったろうか。

 深谷並木にて、まんじゅう揚げを食い、戸田八町村(戸田市)にて半時ほど休む。ここにて「うんどん」生節にて、叔父様と一杯呑む。熊谷市原村にて昼飯を遣い、鴻巣宿に泊まる。

 二十八日、鴻巣より大宮までは叔父様が乗り、天神橋と云うところで、叔父様とそうめんにて酒一合飲み、辻村(不明)にて昼を遣い、八つ(午後二時)頃板橋宿に着く。

 板橋宿は中山道で、江戸を出て最初の宿場で、旅から帰る場合、家族や親戚がここまで出迎えていた。

 享保時代の「料理早指南二編」に、「旅迎えの重詰」というのがあり、重詰した料理を持ち寄り、旅疲れした一行を出迎えたのだろう。「旅迎えの重(重箱)は魚物を多く使い、わけて酒醤油の類随分吟味して旅中の労を償う事を専一とすべし」と書かれている。

 その日、勤番武士酒井影常一行に出迎えはなかったが、向かい宿に唐丸駕籠が五つ並んでいた。唐丸駕籠とは、罪人を乗せる駕籠で、とんだものの出迎えと云うことになる。

 夜に入り、「女郎付ぞめきに行き、また新内語り来り、百文でお志ゆん(おしゅん)傳兵衛一切聞く」と書かれている。この「ぞめき」とは、遊郭をひやかすということで、懐具合のさびしい勤番武士にとっては女郎を買うなどとは、とんでもないこと、せめて「ぞめき」で我慢と云うことだったのだろう。

 翌二十九日には、五つ半(午前九時)頃、江戸屋敷(現赤坂御用地当たり)へ到着、相意馬場の御長屋住いに、すぐさま半袴にて三人連れ御用部屋へ罷り出る。

 都合、五月十三日出立ちから十七日間の旅だったが、半分以上は雨に降られ、途中、大水や崖崩れにも会い難渋した旅だった。ただ、徳川御三家の一つ、紀州徳川家の江戸勤番武士と云うことで、我々下々の旅とはかなり異なるかもしれないが、けっして奢り昂ぶったものではない。

 一方幕末下級武士山本政(まさ)恒(ひろ)は、慶応元年四月九日に江戸をたち、一日目藤沢泊り・以下小田原・三島宿・蒲原・駿府・金谷・浜松・吉田・熱田・桑名・水口と東海道百二十五里二十町(約五百キロ)に十一日間を要し、四月十九日に京都についている。
 一方、一般庶民の旅と云えば、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」が有名である。江戸八丁堀の町人、弥次郎兵衛と喜多八が、御伊勢参りをすることになったが、旅の途中で、様々なしくじりを重ねると云う筋書きである。

 この弥次喜多道中は、在所江戸八丁堀を出発し、最初の宿は、戸塚の宿である。以後、小田原、箱根、三島、蒲原、府中、日坂、浜松ときて、ここから船で浜名湖を渡り、新居の御関所にて一泊し、赤坂宿では狐に化かされたと思い大騒ぎをし、十一日目に、熱田の宮の宿に到着しているが、惣じて、酒井影常一行よりは贅沢な旅をしている。

 然らば、昔の旅はいか程の金がかかったのかと云うと、芥川賞作家田辺聖子さんが、筑前上底井村(現福岡県中間市)の商家の内儀小田宅子(いえこ)刀自が書き残した「東路日記」を基に著わした「姥ざかり花の旅笠」の中に、北九州市立歴史博物館永尾正剛氏の言として、「天保十二年頃、泊り賃一泊平均二百文〜百五十文・二食付き」とあり、ほぼ妥当であろう。

 そして全行程百四十三日、丁銭で二十五貫七百四十匁(一泊百八十文)、三両三分三朱と百四十六文とある。この丁銭と云うのは、銭九十六枚を百文として通用させる九六銭に対し、銭百枚を百文として通用させることで正味と云うことである。

 これ以外に、「食費、交通費、ガイド料、土産代など雑費、旅籠賃と同じ位で、合計一人総費用丁銭六十三貫百八十文、九両二分三朱二百十二文」となっている。

 宿泊費二十五貫余りと総費用との差三十八貫余りは一日当たり二百六十二文にもなり、当時の旅ではとてもここまではゆかなかったのではなかろうか。

 これに対して、田辺聖子さんは、「それほど無残な破格の高値ではない」との感想を持っておられるが、芥川賞作家は別にして、これは大阪の商家の才媛の感覚で、当時の百姓の年間素収入は高々十一両(柳田国雄)程度の我が祖先たちから見たら法外の高額であったに違いない。

 ところで、最近、旅をつまらなくしている道具が流行しているらしい。何かと云えば、カーナビゲーションである。確かにこれがあるとないとでは大違い、その便利さは容易に想像がつく。しかし、私はいまだに頑迷に拒否しているのである。

 そもそも旅の面白さは、出かける前にそのコースについてあれこれ考えるところからはじまって、行った際にも、ときどき道を間違えたり、予想した時間や、目的物の相違があったりすることも旅の楽しさである。

 最近になって、信州飯田線に乗り、しみじみと各駅停車の旅を味わった。この飯田線と云うのは、豊橋から辰野までの凡そ百九十六キロ、駅数が九十四駅、とりわけ静岡と南信濃の間には、百四十余りのトンネルがある。しかも、一日二往復の特急はあるが、あとはすべて鈍行と云う優れものである。

 これに味をしめて、今年の夏と暮れに、今度は「青春18きっぷ」というのを使って、近所の友人たちにも声をかけ山陰一周の旅をした。

 本来は、退屈するような鉄道だが、まったく退屈することもなく、快適な各駅停車の旅になった。

 今まで、すべての乗り物は速く走ることを主体に考えてきたが、これからは、いかにしてゆっくりと、様々なことを楽しみながら旅を行うことが、究極の旅となるのではなかろうかと思っている。(10.08仏法僧)