サイバー老人ホーム

290.旅行けば〜5

 ここからいよいよ中山道百三十五里二十二町(約五百四十キロ)の旅が始まる。翌十五日には、伏見より駕籠にて大津まで行き、「城下川海(琵琶湖)からの出水甚だ敷く、更に草津より大雨是非無く草津嶋屋泊りとする。草津名物うばが餅五つを食べる」

 この「うばが餅」と云うのは、なかなか由緒あるもので遡ること四百五十年、永碌年間近江源氏の流れをくむ佐々木義賢縁の餅というから古い。義堅が信長との合戦で敗れ、息をひきとる間際に遺児を乳母に託し、その乳母が、遺児を養育するために餅を作って生活の糧としたという故事によるものである。

 江戸時代、名物の餅が宿駅や途中の茶屋でもしきりと売られており、伊勢参りの伊勢街道などは餅街道と呼ばれるほど名物の餅が各地で売られていた。勤番武士酒井影常一行も、これ以後も驚くほど餅を食べている。

 余談ながら、うばが餅は今でも売られているが餡子に包まれた指先ぐらいの小さな餅で、味はすこぶる良いが、いささか艶めいた表現ながら形は乳母の乳房に似せたと言うことであるが、せいぜいCカップの乳首ほどである。

 十六日は、朝方雨、後曇りとなり常は徒歩渡しだが、舟渡しにて篠原村(野洲郡)に渡り、鳥居本脇本陣(彦根市)にて泊る。

 翌十七日は、摺鉢峠(不明)を越え、関ヶ原(岐阜県不破郡)にて昼食、そこより気分悪く野上村にて養命酒二杯呑み、駕籠にて赤坂宿(大垣市)まできて泊まる。

 十八日、朝、赤坂宿出立より駕籠に乗る。反里ほど行くと大いに水が出て、道筋五丁ほどは川になり、川野も畑も人家も皆一つになり、死人数知れず、家も皆流れ目も当てられない。

 呂久川(不明)を渡し船にて五里余り、なます村(不明)へ上がり、加納宿(岐阜市)泊まり、食い物も何もなく、雲助の食う牛蒡、焼麩、大根浅漬け、大豆煮しめは食えなくとも食わざる物を酒を二杯呑み、それで息をつなぐ。

 十九日、四つ(午前十時過ぎ)まで少し降る。それより晴れとなり、聊か気分よくなる。太田川手前の二軒茶屋(不明)と云うところで、うなぎ三串、酒一合飲み、鵜沼(各務原市)にて昼を遣い、十方木村にて餅を食い、細久手宿(瑞浪市)大黒屋へ五つ(午後八時)頃到着。
廿日、昼ごろ少し降り、大井宿(恵那市)にて昼食、この日より山道ばかり、五つ(午後八時)過ぎ妻籠に到着。出発から八日目、連日雨にたたれながら、ようやくにして、わが故郷の信州に入る。

 木曽の外れより江戸までは八十八里、安堵感もあったのだろう、ここでも所々にて餅を食い、玉子にて酒を一杯呑む。聞くところによると、この宿より、手前にて女が風に吹き倒されて谷へ落ちて死んだと云うことである。夫と子供二人の旅人と云うことだが、誠に哀れであり、道中筋で前代未聞の事であると書かれている。

 二十一日、朝出立ちより雨で、三留野宿(木曽郡南木曽町)より大雨、同所反里ばかり先で飯を食い、野尻宿(木曽郡大桑村)に到着、ところが十丁ほど先で山崩れがあり、往来留めになっていた。
 仕方ないのでここで問屋を呼びつけ、拠所(よんどころ)無い儀を申し入れ色々申し聞かせたが埒があかず、そこで昼飯に用意をさせて、その間に酒を一杯呑み、一嚊(ひといびき)寝て、七つ(午後四時)過ぎ膳が整い(食事)、そこから再び出立し、六つ(午後六時)須原宿(木曽郡大桑村)に到着する。

 二十二日、朝出立より雨、四つ(午前十時)頃晴天、八つ(午後二時)より再び大雨、此の日寝覚村(上松町)にて名物のそばを食う。名所の多い上松宿より反里ほど先の茶屋名物わらび餅また柏餅を食い、福島宿伊勢屋にて昼を遣い、亭主に関所の都合を聞いてもらい、別状ないとのこと、薮原宿(木曽郡木祖村)まで行く。

 二十三日、朝大雨昼後晴天、夕方になって大雨、煙草を切らし、贄川宿(塩尻市)にて一匁買い、本山宿(塩尻市)にて昼を遣い、塩尻峠より少し手前の一軒茶屋にて卵一つ食い、峠より始めて富士を見る。

 下諏訪宿にて泊り、宿の温泉に浸る。塩尻宿手前の洗(せ)馬(ば)宿(塩尻市)の改め所にある本陣色々世話をしてもらい、美江宿(岐阜県瑞穂市)一カ所の先触れ抜けており、難しく申したため、一朱遣わし、内済にしてもらった。このことで、亭主の世話になったので一朱遣わした。
美江宿とは、十八日に赤坂宿を出て、大水が出て、川野も畑も水浸しになり、食うものも食わず加納宿にたどり着いたときの宿場である。この時、美江宿には経由していなかったので、そのことを指しているのだろう。

 宿場では、予め回ってきた先触により、人馬の手配をしている。それに対して何の連絡もなかった場合は、宿場ではそれだけの負担となる。
私が現在住んでいる町と武庫川を挟んだ対岸の生瀬宿は、かつては有馬温泉への宿駅であり、併せて丹波街道の宿駅でもあった。ところが隣の和紙の産地名塩宿とは距離にして一里もなく、しかも、我が家からも見える、有馬道との分岐に猿頭(さるこうべ)岩という奇岩があり、これが大変な難所だった。

 そこで、名塩宿は、現在はわが町の住宅地となっている「青濃山畑」を開削し、生瀬宿の対岸に新たに青濃道をつけてここを通って、隣の小浜(宝塚市)まで継ぎ足すことにしたのである。

 こうなると、生瀬宿は、駕籠抜けされたことになり、幕府に対し直訴までし、百五十年間も争っていたのである。駕籠抜けは宿場にとって生き死ににかかわる重大事であった。(10.07仏法僧)