サイバー老人ホーム

289.旅行けば〜4

 幕末下級武士山本政(まさ)恒(ひろ)一行は、「長持駕籠は四人持ち、人足は一里二十八文位の定めなれども、甲の宿よりも乙の宿まで賃銭に定めある故、幾分か差し違いあり」となっている。

 即ち、同行者の明け荷四個を馬の背に乗せて、人足四人、家僕一人を引き連れて旅をするわけで、先触により各宿場の問屋にて継ぎ立ての手配をすることになる。

 「先触を受けたる宿々にては、棒端(はな)と云う宿の入り口に宿役人で迎え居り、名前を聞きて泊宿へ案内為すなり。昼休みは着早々茶及び膳を持ち来る故、急ぎ飯を食し出立す。」

 宿場に付いた一行は、棒端と云う宿場役所に道中手形を指し出し、宿の割り振りをしたのであろう。

 「泊まり宿は両掛けを次の間まで持ち込ませ、錠を開け、着替えを取り出し、着替えて風呂場へ行き、入浴して酒肴を注文し、茶代を遣わし、宿銭の受取帳を渡し、それより酒食して休み居れば亭主茶代の礼を述べ、宿銭帳を持ち来る故銭を渡し、明朝出立刻限を示し、寝床を敷かせ、それより日記をつけ、脇差を布団のわきに置き、心付けて寝る」、山本政恒にとっては初めての長旅だったのだろうか、詳細を極めている。

 「翌朝、両掛けの錠を掛けて、宿へ引き渡し、荷物は僕一人連行故、その者に銭を渡し置き、宿々継ぎ立て場にて賃銭を払い、帳面に記させ持ち歩くなり」とかなり几帳面な行動を続けることになる。

 一方、紀州藩勤番武士酒井影常一行四人は万延元年(1860)五月十一日に、紀州(和歌山県)を出立した。旧暦五月十一日は、新暦の六月二十九日で梅雨の真っ最中、朝出がけより雨が降り続き、田井の瀬渡しの水勢が強く、一刻(二時間)ばかり手間取り、山口にて中食、川留め、新達にて宿りと、出足すこぶる不安な旅立ちとなった。以後、五月二十四日までの二週間雨に降られ通しになる。

 この時、四人に駕籠一挺は認められていたようだが、その外は分からない。以下は、酒井影常の「江戸日記」を抄訳する。

 翌朝雨の中を樫の井渡り(泉佐野市)、蛸茶屋にて一杯呑み飯一椀食って、岸和田問屋で駕籠を乗り換え、大津一ツ橋で昼食、境浪花屋にてあんころ四つ食い、住吉参詣し、大阪八軒屋にて泊まり、貝塚、大阪築地高麗橋辻君沢山見る。

 この頃までは、江戸行きの意気込みもあっていたって元気である。伏見までの船は大坂八軒屋から三十石船に乗る。

 十三日は、淀川大水にて舟止まりのため、宿役人から一札取り、天神へ参詣終日芝居見物し、七つ頃(午後四時)に再び大雨になった。今のサラリーマンの電車遅延同様に、遅延の証明を取ったのであろう。

 十四日はまだ雨が降り続いたが、何時までもこうしては居られないと云うことで、無理して出立し、桜の宮より十丁ばかり先の毛馬(都島区)の渡し場より淀川に入るが、枚方を過ぎて悪風が吹き、帆柱折れかかったので、皆々生きた心地もなく淀にて改め所でお改めがあり、ようやく伏見に着いた。

 元治元年(1864)の「伏見登り下り船賃割増値段御伺出」と云う書類が残っていて、これによると、「伏見下り船並びに大阪登り船賃銭の儀、御定賃にては諸物高値にて凌(しの)ぎかね候趣に付き、左の通り値増し及び取り計らい候旨お勘定奉行中より申し来し候事」の書き出しで、

 「乗合一人前船賃御増共  銭四十八文

 右船宵回し並びに翌日下りと相成り候より、飯米野菜薪代一艘に付き、銭一貫文づつ下げ渡し候筈の事

 大阪より伏見登り船値増し左の通り
  一、銭三貫二百文   三十石定賃
    同四貫八百文   此の度値増し願
    小以八貫文一艘より船賃

  一、銭八十三文    一人御定賃
    同四十三文    此の度値増し願
    小以百三十三文  一人お賃銭

  但し、伏見より下り船値増し願二艘半増しに当たり申し候」となっている。

 面白いのは、夜行便の為、その晩の船頭らの「飯米野菜薪代」を一艘に付き銭一貫文を課している。

 この記録は、紀州藩藩士が、元治元年七月十九日の蛤御門の変の後、その後の状況を探りに来た時に書き写したもので、酒井影常一行はまだこの値上がり前と云うことになる。なお、この中で「小以」とは、小計の事である。