サイバー老人ホーム

288.旅行けば〜3

 この本陣について、幕臣を先祖の持つ、明治から昭和初期の作家岡本綺堂の「風俗江戸物語」に、徳川家の武士が御用を帯びて出張する場合、原則本陣に泊まることになっていたが、本陣の汚さは御話にならなかった。大名でも旗本でもよく我慢したと書かれている。

 宿泊賃は、普通の宿屋の場合、百五十文から二百文(相対賃銭)、本陣では武士一人百文位(御定賃銭)であったと云うことである。

 一般的に、本陣は豪壮な建物と思われているが、岡本綺堂の云う「本陣は汚かった」と云うのは当たらないのではなかろうか。

 島崎藤村の「夜明け前」に本陣の台所事情は火の車であったのかもしれないが、体制奉還の後、宿駅制度が廃止された後でも、かつて藩主などが寝泊まりした「上段の間」は、その後も神殿などとして大切に扱われている。

 ただ、本陣を始めとする宿場の財政的な苦しさは一通りではなく、宿場人足、助郷村との争いは絶えなかったようで、「夜明け前」には、明治になって、明治新政府総管所が発行した「心得書付」次の通り書かれており、この反対が江戸時代の宿場の実態だったのだろう。

 一、東山道何宿天馬所と申す印鑑を作り、是まで問屋と申す印鑑は取り捨てること。
 一、問屋附けの諸帳面、今後新規に相定め御印鑑継ぎ立て(御朱印)、御証文継ぎ立て(御証文)、御定め賃銭払い継ぎ立てのものなど帳分けいたし付け込み見方混雑致さざるよう取り計らうこと。
 一、筆・墨・紙・蝋燭・炭の入り用など、別帳にいたし、怠らず詳しく記入の事。
 一、宿駕籠・桐油(とうゆ)・提灯等これまでのもの相改め、これまた然るべく記入の事。
 一、新規の伝馬所には、元締め役、勘定役、書記役、帳附け、人足指し、馬指しなど一役に付き二人ほどずつ。月給の儀は追って相談。
 一、宿駅助郷一致の御趣旨に付き、助郷村々に対し干渉がましき儀これ無きよう。
 一、御一新成就致し候迄は、二十五人、二十五匹の宿人馬もまずまず是までの通り立て置かれ候に付き、御印鑑並びに御証文にて継ぎ立ての分は宿人馬にて相勤め、附近の助郷村々より出人足の儀は御定め賃銭払いの継ぎ立てに遣わし、右の刎ね銭を取り立つことは相成らず候。助郷人馬への賃銭は残らず相渡し、帳面記入厳重に取り調べ置き申すこと。

 これを見ると、宿駅側と、助郷側との間のいさかいの模様がよくわかる。

 一方、宿場にとって蛇蝎のように嫌われたものに、例幣使の通行があった。例幣使とは天皇の命により神社・山稜などに幣帛(へいはく)を奉献することで、天皇が直接参拝して幣帛を奉ることで、天皇の使いとして勅使を派遣して奉幣せしめることが多く、この使いの者のことを例幣使といって、御朱印継ぎ立てだったのである。

 ただ、わが故郷を通過したのは、日光例幣使といって、普段は貧乏な下級公家であるが道中では朝廷と幕府の権威を嵩に大変な権勢を誇った。

 御朱印継ぎ立てであるため宿場や助郷村は無賃で道中に協力させられ、大量の空の長持を用意し、それに対し六人持ち(人足六名で担ぐ)、八人持ちなどと宿場が用意できる人足を大幅にこえる人足数をそろえるよう指示し、これに不足した人足分について宿場側より補償金をせしめるためである(例幣使側が直接人足を雇用したという建前)。

 幕末下級武士 山本政恒は、慶応元年四月、この例幣使警衛役を仰せつかり、東海道を登り、京都で例幣使を迎え中山道を通っている。この時の模様を次のように記している。

 「勅使の供立ては金紋先箱・例幣櫃は、宰領・萌黄木綿長羽織・股引半天二人・人足十六人持ちなるを四人にて持ち、残り十二人の賃銭を現金にて問屋より受け取り、因って天保銭を糸に差し首に掛け歩行す。

 装束櫃は宰領一人・四人持ち。警衛御徒十三人、割羽織・括り袴・脚絆・長刀(手人)・御駕籠侍二人・茶瓶合羽等なり。」
天保銭とは百文であり、宿駅側からせしめて刎ね銭を得意げに首から下げていたのであろう。

 「供人は、宿問屋にて駕籠人足を金に替え受け取り、また駕籠に乗り宿を離れ、人足と談判して銭を取り歩行。
 勅使へ道中大名よりご機嫌伺いに使者きたり、進物を受ける様子なり。宿の者注意し大切に取り扱うと雖も、何か落ち度があると、金銭にて内済す」となっている。

 ところで、宿場には、本陣・脇本陣以外に、一般の旅人が泊る平旅籠と、飯盛り旅籠と云うのがあった。この飯盛り旅籠とは、飯盛り女と云う売春婦を置いた旅籠で、幕府は、享保三年(1718)に風紀取り締まりの為、飯盛り旅籠に二人までの遊女を置く御触れを出したが、なかなか守られず、飯盛り旅籠を全ての旅籠と拡大解釈していたのである。

 したがって、旅人が宿場に到着すると、出女とか、宿引き女などと呼ばれた女達が旅人に呼びかけて客を呼び込んだのである。
そして、一般の旅人は、この平旅籠や、飯盛り旅籠との相談で決める「相対賃銭」といわれた。この「相対賃銭」は割がよいので、賃銭の多寡により出される料理も奢り、駕籠でも座布団はあり、人足や、旅籠は勢い客の奪い合いとなるのである。

 十返舎一九の「東海道中膝栗毛」では、宿場に到着するたびに、客引きの女子が呼びかける風や、駕籠舁(か)き等が、しきりと客を引くところが描かれていて、この光景はつい五十年ほど前の観光地などでは同じような光景が随所に見られた。

 更に、我が祖先たちが寝泊まりした木賃宿と云うのがあった。この木賃宿とは、糒(ほしい)等を持参し、それを温めるための湯を沸かす薪代だけを払う宿で、ちなみに、慶長十九年(1614)の触れ状では、「旅人、厩(うまや)に薪を用いる者は四十三文、若し薪を用いざる者は出すに及ばず」であった。

 即ち、木賃宿と云うのは、黒澤明監督描く所の名作「七人の侍」を探しに行った百姓たちの世界である。
 「東海道中膝栗毛」に、三島宿でゴマの灰(スリ)に有り金残らず置き引きされた、弥次郎兵衛と喜多八が、ようやく蒲原宿にたどり着き、木賃宿の泊まることになる。

 「チトご免なせえ、とずっと入り見れば、畳の四五畳も敷かれようと云う内にて、仏壇一つと、破れ葛(つ)籠(づら)一つの身代、主は七十近きおやじ、囲炉裏の際に藁をなっている。自在(鉤)にて吊るしある鍋に、何かぐつぐつ煮えるそばに、六部(祖国巡礼の聖)が一人、巡礼二人、一人は六十余のおやじ、一人は十七八の娘、笈(おい)摺(づる)を着たままあかぎれだらけの足をのばし、火にあたっている。ばヾが、サア粥ができた。みんな食いなさろ、六部さんのも三合ばかしあったべい、そこへ分けて食いなさろと云い、てんで(銘々)に茶碗を出し以て食う。

 夜も更けて、主のばヾ、それぞれに寝茣蓙などあてがいて、さあさみんな、そべらしゃいませ(寝そべりなさい)」と木賃宿の様子が細かに書かれている。(10.06仏法僧)