サイバー老人ホーム

287.旅行けば〜2

 手形を受けて、これから旅立とうとする場合、「それじゃあ行ってくるからね」というわけにはゆかない。

 幕末下級武士「山本政(まさ)恒(ひろ)一代記」によると、「出立ち前日までに親類へ行き暇(いとま)乞いを為し、当日は親類及び懇意の者見送りを例とす。見送り人へ酒肴・昼飯を出し、別れを告げて出立ちするなり」となかなか面倒である。

 出発に先立ち、「一日十里詰を以て日割りを定め、休泊宿々及び継ぎ立て荷物などを詳記したる先触状を発し」て置かなければならないのである。

 この一日十里(約四十キロ)は、本人の体調や、年齢を考慮しただろうが、凡そ平均した行程だったようで、一般市民の場合は道中師という旅行ガイドが先導した。これにより各宿場は、それを支えるための人足や、馬などを用意していたのである。

 前出の「代吉日々覚え」に、伊勢参りの事が記されていて、「享和三年(1803)正月五日に出立、参宮致し、同二十八日下向」と書かれている。即ち、往復凡そ二百三十里(八百六十キロ)を二十三日程要した事になり、驚くべき速足である。

 宿場には、人足二十五人、馬二十五匹が常に用意することが義務付けられており、先触状によって準備しておかなければならなかったのである。ただし、通行する旅人の規模によってはこれでは足りず、宿場近在の村々に割りつけ、これに助郷と云って、人足が出せない場合は銭納させており、百姓にとっては誠に迷惑な話であった。

 前出の「五人組御仕置書」には、「御伝馬宿へ助っ人、馬寄せを候者、問屋・名主吟味致し、猥(みだりに)人馬觸れ仕り間敷候、其の宿の馬囲い置き面々勝手の荷物を付け候樣成る儀一切仕りべからずの事」と書かれており、助郷村にとっては厳しい規制のもとに置かれていた。

 我が故郷の場合、中山道の追分宿(現軽井沢町)が助郷の対象であったが、追分宿まで八里以上もあり、朝早くから夜遅くまでの徴発であり、とりわけ農繁期などでは大変な負担であったに違いない。

 更に、「御朱印は勿論、駄賃・伝馬・人足の儀、常々吟味致し置き滞り無き様に仕るべく事。助郷へ人馬触れ来候は、刻限違いなく出る扁し、若し人馬割心得難き事候共、先ず滞り無く出、後日に申し出べき事」

 「御用人の人馬は申すに及ばず、東海道にて之無き候共、往来の者、駄賃人馬の儀、昼夜を限らず滞り無く之を出るべき事」と厳しい。

 前出「代吉日々覚え帳」の文化三年(1806)四月一日の条に、「紀伊中納言様通行、人足十八人、高百石に十七人遣わす。一人三百文遣い、九百文、宰領に三百五十文遣い、三月二十五日御触れ出し、五日延引なり」と書かれていて、この人足賃も村の入用だったのだろうか。

 山本政恒氏(うじ)はこの時、幕臣として例幣使の警衛に従うことになっていたため、各宿場に前触れが回っていたのだろう。

 「御手当金、取越米、旅扶持、荷物は一人に付き両掛け一荷、明け荷一個、二人へ駕籠一挺の人馬下され」となっていて、その具体的金額の記載はない。

 ここで両掛けとは担い棒の両側に、鍵付きの箱(又は籠)の付いた物で、手配の人足が担ぐことになる。明け荷とは、今でも大相撲の力士が巡業の際持ち運ぶ葛(つ)籠(づら)の事で、これらは通常馬で運ぶことになる。

 「大葛(つづ)籠(ら)を琉球筵にて包み、堅固に麻縄を以て綴り、封印及び名札を縛り付け、この明け荷四個を本馬と云い、三十六貫目の定めなり。駄賃は一里五十八文程」

 当時、旅籠の泊まり賃や、渡し船賃には、四通りに賃銭が定められていた。一つは将軍自らが発行する「御朱印状」携帯の場合で、幕府や朝廷直轄の御用の場合で、旅に要する費用は無賃であり、すなわち宿場側負担である。

 次が、老中などが発行する「御証文」携帯の幕府の公用の場合も無賃である。
 次が「御定賃銭」で、外様を含めて、藩主の参勤交代や、武家が通常旅をする場合である。この「御定賃銭」は、幕府に四人いた道中奉行から、宿駅間の駄賃を「ね積(値積)り」するよう申し付けられた江戸惣町年寄の奈良屋と樽屋が、各宿駅間の駄賃についての案を作成したもので、各宿駅間の道路事情などにより、一里あたり駄賃は違いが大きく、最も交通の頻繁な東海道でも一里十六文から四十六文まで分散していたと云われている。
 その他、本馬一頭につき積荷三十六貫、公定賃金二百文、夜通し三百文、輕尻馬積荷五貫と人一人に付き本馬の三分の二、人足一人に付き荷物五貫まで本馬の二分の一、大井川渡賃肩車九十文(安永)、九十五文(弘化)などとなっている。

 ただし、「御定賃銭」は、一般の市民が旅をする場合より高くはなかった。したがって、籠なども、旅籠屋提供していた駕籠は座布団付きだが、「御定賃銭」の場合は、座布団なしで、通常参勤交代などの場合は駕籠は自前であった。

 江戸時代、各地に宿場と呼ばれる宿駅のあったことは知られている。この宿場は、公役と軍役を兼ねた幕藩体制を守る大切な機能を持っており、とりわけ、参勤交代や、幕府自らの幕臣の移動などには無くてはならないものであった。

 宿場には、庄屋・組頭・本陣・問屋・年寄・伝馬役・定歩行役・水役・七里役(飛脚)などの役に分かれて取り仕切っていて、この中で本陣とは、宿駅で諸大名などが宿所とした公認の旅館があったことはよく知られ、本陣等の名前は軍役から由来している。また、問屋(といや)とは、宿駅で人馬の継ぎ立てなど種々の事務を行なうところである。

 中山道馬篭宿の庄屋・問屋を兼ねた本陣の御曹司であり明治の文豪島崎藤村の「夜明け前」によると、武士の客から「昵懇」になろうと声をかけられたら、心安くなろうと云うことで、宿の亭主は必ず御肴代の青銅(銭)とか御祝儀の献上金とかをねだられるのが常であった。

 必ず一分とか、一分二百とかの金をねだられるのを覚悟せねばならなかったということである。なお、「御定賃銭」は、慶長元年に定められ、以後諸物価の変動に応じて加減していた。(10.06仏法僧)