サイバー老人ホーム

286.旅行けば〜1

 日本人の旅好きは定評のあるところで、私もその例外ではなくかなり各地を旅した部類に入り、目隠しして日本中どこへ放り出されたとしても困る事はないと自負している。そのきっかけになったかどうかわからないが、子供の頃、なぜか浪花節と云うのが好きだった。

 取り分け、広沢虎造の「石松三十石船」と云うのが好きで、高校の頃まで一人風呂場で唸っていたものである。

 この「石松三十石船」の出だしが、「旅行けば、駿河の国の茶の香り〜」である。もうかなりうろ覚えになってしまったが、東海道一の侠客の親分清水次郎長の子分森の石松が、次郎長の代参で四国金毘羅さんにお参りに行き、その途中の渡し船の中での乗客とのやり取りを面白おかしく描いたものである。

 ただ、旅の仕方も、今はだいぶ変わってきているが、私が社会に出始めたころは、何といっても職場の慰安旅行が全盛だった。結局務めた年数の何倍かの旅をしたことになる。
 昔から、この国には、旅の恥はかき捨てと云う風習があり、したがってその旅の数だけ恥をかいてきたような気もする。ただ、そのころの旅は、今ではあまりお目にかかれなくなったが、旅館の客あしらいなどにも昔からの旅風情が各地に残っていた。

 最も変わったのが、交通手段だろう。新幹線が開通したのが、昭和三十九年十月、その翌年の二月に我が愚妻と結婚し、初めて東海道新幹線に乗って新婚旅行に出かけた。

 はじめは、その速さの驚き、モーターの焼ける電気臭さが気になり、ゆっくりと外を眺めた記憶もない。

 江戸時代の人々は、大方は自分の足で一歩一歩踏みしめて目的地に向かったわけであるが、いったいどのような旅をしていたのだろうか。

 旅の記録と云うのは意外に多く各地に残っていて、それと云うのも、旅をしようとする人は必ずと言ってよいほど旅日記を残しているからである。
まず、江戸時代に旅をしようとした場合は、通行手形と云うのが必要だったと云うことはよく知られたところである。
通行手形とは、関所を通る際に示した身元証明書であり、関所切手とか関所札とも云われた。

その目的は、江戸を中心とした、「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まるためのもので、江戸の治安維持を図るための入り鉄砲は分かるが、出女とは、全国五十三の関所中、檜原関(武州・山梨県)を除く関所で女人改めを行い、女の通行を厳しく制限した。

 従って、国元を出る女は、各町奉行所の判形を必要とし、提出する関所あての書状となっていたため、あまり残ってはいない。

 内容は、禅尼・尼・比丘尼・髪切り・小女などに区別し、その上、鉄漿(おはぐろ)付け小女・既婚者・乗り物の女・懐胎女などに分けて、手形に記載したと云われている。ここで、髪切りとは、「髪の長短によらず、残らず切り揃え候は髪切り也」と云うことで、患いによって抜けたり、おできによって抜けたような場合は除くという

 当時、大名が徳川幕府に二心のないことを証明するため、大名の妻子を江戸に住まわせ、大名は国元と江戸を往来していた。とりもなおさず、大名の妻子が国元に帰ることは徳川幕府に対する反逆であり、それを防止するために徳川幕府は各地に関所を設置して通行者を遂一監視したのである。

 寛文十一年(1671)、土屋但馬守なる者が、近江国野洲郡河田村(滋賀県)から家来の妻子を江戸へ引き取りたいので関所に対して次のような許可を求めている。

 「女、上下四人、内髪切り一人・小女一人、乗り物二丁、江州野洲郡河内村より、江戸へ引き取り申し候間、今切(節)御関所罷り通り候、御裏判下されるべく候、右は我ら家来の者妻子にて、この度引っ越し申し付け、此の如く候、以上
寛文四月四日            土屋但馬守
永井伊賀守殿

 表記の女四人、内髪切り一人、小女一人、乗り物二丁、御関所相違なく相通られべく候、断りは本文これ有り候、以上
亥四月十八日            伊賀?
今切(今節)女改め衆中」

 一方、私領では、境を接する隣藩との出入り口に番所を設け、藩境警備と領内経済政策の必要から通行人出入りと物資の監視を行っていた。信州松本藩と境を接する松代藩の間には高村番所が置かれていて、番所の任務の中で、女出入りについて、「領分より他所へ出候女の儀、用番年寄城代加判にこれを通すべし」となっている。

 ただ、所を定めず遍歴する者は座などが発行する往来手形を、女は女手形を必要としたと云われているが、さほど厳しく取り締まるものではなかった。

 往来手形とは、旅行の許可と身分証明を兼ねたもので、旅行者が旅先で病死した場合、その土地の寺で葬り、後で知らせてもらいたい旨書かれていて、庄屋・名主・檀那寺などが発行した。

 安政六年(1859)に紀州牟樓郡尾鷲妙見町(和歌山県)の金剛寺から出された「往来一札の事(手形)」によると、

 「紀州牟樓郡尾鷲妙見町仙蔵と申す者、宗旨は代々禅宗の儀にて、拙寺旦那に紛れ無く御座候、今般、心願に付き諸寺諸国神社仏閣拝礼に罷り出たく願いに付き、その意に任せ差しだし候、之に依り国々海陸御関所相違なくお通し下されべく候、若し行き暮れ難渋の節は、一宿の御助成頼み入り候、万一此の者途中にて相煩い病死など仕り候はヾ、其の所の御作法通り御取り置き下されべく候
安政六年三月       同国同郡同町   金剛寺?

国々御関所衆中
村々宿々御役人中」とけだし名文で書かれている。

 こうした規制も時代が進むと緩やかになり、男が下る時には手形無しで、更には上りも必要無くなって行ったが、女性の場合は明治まで上り下りとも手形を必要としたとされているが、それほど厳密ではなかったようである。

 当時、旅の目的は、今のように物見遊山などは、極めて稀であり、この例でも示すように、諸国巡礼や、お伊勢参りなど、有名な寺社参拝であり、そのためにお伊勢講などが盛んにおこなわれていた。(10.05仏法僧)