サイバー老人ホーム

221.我が「昭和33年」8

 「昭和33年」は、「一時的不況の中にあったが、その期間は1年程度で、1990年以降の失われた十年を経験した我々にとっては、不況と呼ぶには大袈裟な気さえする」と書かれている。

 「神武景気」の次に、昭和34年から翌年にかけて「岩戸景気」が起こったが、この頃好景気と言うのはごく短くて、後は低迷した景気の中で、国民は文字通り這い蹲って貧困に耐えた時代である。
この頃「耐乏生活」と言う言葉があったが、国も会社も国民も等しく貧しさに耐え、先進国に対して追いつけ、追い越せを合言葉に努力した時代であった。

 ところで、所得倍増論がきっかけとなり、景気は回復したわけでもない。この政策は、国が赤字国債の発行に踏み切った事であった。加えて、昭和40年の東京オリンピック、その前年の東海道新幹線の開通と言う大きなプロジェクトを中心に、国中が工事現場のような喧騒の中にあった。

 一方、当時の企業は、二言目には「貿易自由化」が叫ばれ、自由化後の競争力確保に狂奔していた。同時に、日本製品も、かつての「安かろう、悪かろう」から脱却し、その優秀性が認められるようになった。

 昭和30年代の後半、先に亡くなった植木等さんの「スーダラ節」などが流行ったが、「昭和33年」にも書かれているように、「多忙を極めた当時のサラリーマンの心を慰め、ストレス解消効果をもたらした」もので、スーダラなどしている暇など無かった。

 ただこの頃になって、ようやく生活の余裕が多少出てきて、サラリーマンにとって三種の神器と言われる、テレビ、冷蔵庫、洗濯機が普及するようになった。

 ただ、だからと行って無制限に需要が拡大したわけではない。私が結婚したのが昭和40年2月であり、このときの家財道具は、箪笥二竿と中古のモノクロテレビと、洗濯機、今では大学生が下宿用に購入するような小さな冷蔵庫だけであった。

 もっとも、厳しかったのは住宅であり、6畳一間に、小さなお勝手とトイレと言う間取りであった。当時も、住宅公団や、公営住宅と言うのもあったが、所得による入居基準と言うのがあり、高すぎても低すぎても入れなかった。

 時により、この基準内の物件もあったが、宝くじに当たるような倍率であり、それでもいつかはめぐり合える幸運を信じて、繰り返し、繰り返し申し込んでいた。

 風呂は近くの銭湯であり、まさに「神田川」の「小さな石鹸カタカタなった」の世界であった。当時家賃は8千であり、新婚旅行で京都都ホテルの宿泊賃が二人で8千円ということで、その重みを考えて、3泊4日で早々に帰ってきた。

 最近、読売新聞の「時代の証言者」と言うコラム記事で、マラソンの君原健二さんが書かれていたが、君原さんが結婚されたのが、私より1年後の昭和41年だそうで、当時の君原さんの給料(八幡製鉄)が3万円余りだったと言われている。

 当時、君原さんは、マラソンのトップランナーであり、いわばエリートである。しかも、新婚当時は、陸上部の人たちと社宅に住んでいたとのことであり、私などよりはるかに恵まれていたはずである。

 それでも、アスリートと言う特性はあるが、当時のエンゲル係数が80パーセントを越えたではなかろうかと述懐されている。

 したがって、昭和33年頃は、生活のゆとりなどと言うものは全く無く、衣食住のうち住宅については殆どの人が困窮していた。その中で君原さんのように社宅に入れると言うのは最も恵まれた人たちであった。ただし、その社宅も多くは共同便所、共同炊事場を持つものが多く、それでも人々は味噌醤油の貸し借りをしながら嬉々として生活していた。

 「消費は王様」などと行って、消費する事が奨励されたのはずっと後のこと、今のように大量の食料が賞味期限や、売れ残りで廃棄されるような事も無く、慎ましやかに生活していた。

 衣類についても、川柳に「ステテコに外出用があるくらい」であって、一張羅というよそゆきの衣類を後生大事に使っていた。

 昭和40年以降景気は急速に回復し、「いざなぎ景気」を迎えるが、同時に日本は大きな問題に遭遇した。
 それは、戦後一貫して維持されてきた、対米ドル交換レートが大幅に引き上げられたのである。

 昭和46年、アメリカ大統領ニクソンによって発表された金・ドル交換停止などを内容とする新経済政策により、それまでの交換レート1ドル360円が、306円に切り上げられ、同時に世界経済は深刻な衝撃を受けた。

 この頃、会社で西ドイツから、当時輸出振興企業に認められていた高額な機械(重免機械)の輸入を担当していて、一夜にして17パーセントも値上がりする事になり、上へ下への大騒動になったことがあった。

 この背景には、アメリカの巨額な貿易赤字を解消する狙いがあったが、これでもアメリカの貿易赤字は一行に改善する気配も見えなかった。

 同時に日本は深刻な不況に見舞われた。この中で「列島改造論」を引っ提げて登場したのが内閣総理大臣田中角栄である。

 そして、これを境に日本は投機社会に変貌し、「土地本位制」になったのである。当時、サラリーマンにとって、自分の持ち家を持つというのは究極の願望であり、男子一生の間に庭付きの家を持つなどと言うことは夢のまた夢であった。

 その夢を置き去りにするように、土地の値段は幾何級数的に上昇し、「土地なし、株なし、ゴルフなし」はこれからはどうにもならないなどといわれ急速なインフレに突入した。

 そして、田中総理がロッキード事件で退陣した昭和48年には、日本が変動相場制に移行し、続いてEC諸国も変動相場制に移行し、ここにおいて、固定相場制(スミソニアン体制)は完全に崩壊したのである。

 加えて、昭和48年10月には第四時中東戦争が勃発し、OPEC加盟国は、石油価格を一挙2倍に引き上げ、更にイスラエル支援国への石油輸出を禁止し他のである。この支援国の適用を外すために、国を挙げて取り組み、一般企業でもその対策に忙殺された。

 この石油ショックにより、日本の消費者物価は23パーセントも上昇し、当時の首相福田赳夫をして言わしめた「まさに狂乱物価」の時代を迎えるのである。これを抑制するために公定歩合を今では信じられない9パーセントに引き上げ、設備投資を抑制したため、戦後一貫して続いてきた経済成長は始めてマイナスに転じ、高度経済成長が終焉したのである。

 この当時、今では語り草になっている「トイレットペーパー騒動」や、「テレビの深夜放送の休止」や、「銀座のネオンの早期消灯」など、この頃まだ遊び呆けていた団塊の世代など他人事と思っていたのかもしれない。

 昭和50年代は、私の働き盛り、この時代は総じて暗黒の時代であった。「空洞化現象」といって、製造業の多くが地方に移転していった。ただ移転したそれらの製造業も、操業の低下により次々と縮小、または廃業に追い込まれていったのである。(07.05仏法僧)