サイバー老人ホーム

220.我が「昭和33年」7

 60年安保闘争の後、岸内閣が退陣し、代わって池田隼人内閣が誕生した。この池田首相が、「所得倍増論」をぶち上げた。この「所得倍増論」などは「昭和33年」の言う、さしずめ「常道を覆すような大胆な発想」だったかもしれない。

 池田隼人と言う人は、これよりか何年か前に、「貧乏人は麦を食え」「中小企業の一つや二つ潰れても」などと発言して物議をかもし、当時の蔵相を退任している。

 余談ながら、何年か前に、ある大手トラックメーカーのクレーム隠しがマスコミの攻撃さらされた折、かの有名な豪腕都知事の御曹司である国交大臣が、「自動車メーカーの一つぐらいは亡くなってもかまわない」と言うような発言を聞いたが、これが、昭和33年当時と今との差かもしれない。

 法人とはいえ、立派に人格を持つ「人」であり、またその法人を寄る辺とした人があまたある中で、当時は、国民の政治意識がもっとも先鋭化していた時期であり、このような無責任な発言があれば瞬く間に、政治上から抹殺されていたかもしれない。

 ただ、「昭和33年」に、航空機による海外航路も新設され、「神武景気の影響もあり、日本人も海外旅行をする人が増えて、洋行ブームと言われた」と書かれているが、これは全く違う。

 海外旅行など出ができない事は前に述べたとおりだが、勿論盆暮れの帰省は行われていたが、国内旅行などもそれほど自由にできる状況ではなかった。

 当時の国鉄の輸送力は今の比較にもならず、どこに出かけるにも、切符を購入した後は長蛇の列ができ、座席を確保するなどは至難の業であった。

 したがって、座席を確保できなかったものは、男も女も床に新聞紙を敷いてごろ寝で目的地に向かった。特に特急など早い列車に限って混雑した。

 更に、この当時、国民が私的な理由で留学したり、海外旅行をする事は禁止されていて、これらが自由になったのは昭和39年からである。

 「昭和33年頃、経済成長を受け止める既存のインフラが、限界点に達しつつあった。大都市の交通渋滞激しさを増し、幹線道路の混雑振りは絶望的となっていた」と書かれている。確かに当時のインフラは、戦後引き継いだものを継ぎはぎし使っていたもので、経済の発展にあわせ齟齬をきたしているものが多発していた。

 取り分け、昭和30年に、初の国産乗車「トヨペットクラウン」が開発され、間もなく車社会を迎える中で、道路の後進性は目にあまり、外国人をして「日本の道路は道路予定地」なるありがたくない称号をいただいた。

 昭和30年、わが国最初の有料道路戸塚バイパスが開通したが、これは当時首相だった吉田茂が、大磯の私邸から、霞ヶ関に通うのに、開かずの踏み切り(戸塚踏み切り)に業を煮やして建設したもので、後に「ワンマン道路」と言われた。

 ただ、「昭和33年」に、「渋滞の中を縫うようにして、ノルマ達成に追い立てられた商業車が疾走し、交通事故が増大していった」となっているが、当時は主に業務用であって、一般の普及はまだそこまではいっておらず、車がそこまで普及するのはかなり後の事である。

 ただ、オートバイは根っからの日本的職人本田宗一郎さん率いる本田技研を含め、国内有力メーカーの優秀性が世界的に認められ、自動車に先駆けて世界へ羽ばたいていった時代である。

 「昭和33年」には、「高度経済成長黄金時代を前にして、当時の経済界は驚くほど気勢が上がっていなかった。経営者も従業員も、今と同じような不安感を持ち、現状を日々生きるのに必死だった」と書かれているがそんな事はない。

 昭和30年代と現在では経営に対する考え方が根本的な差がある。先般なくなられ作家の城山三郎さんは、当時の経営者には「志」があったといわれている。

 経営に携わる者は、少なくともその事業が日本と言う社会に、どのような位置づけであるかと言うことをわきまえており、一般社員もその役割の軽重に応じてそのことはわきまえていたと思っている。

 企業はまず何をおいてもこの国において存在理由がある企業である事、更に外国企業に伍して戦えられるような技術を身に着け、同時に魅力的な商品を生み出すことであった。

 そのためには、滅私奉公とまでは行かずとも組織の埋没しない勇気、少数派になることをいとわない行動力が必要であり、多くの有意の士が後の日本の発展を支えていた。

 新幹線の生みの親といわれる十河国鉄総裁の後を受けて、昭和38年に国鉄総裁に就任し、「粗にして野だが卑ではない」と言わしめた石田礼助総裁は、国鉄からの総裁報酬を辞退しており、当時の経営者は少なからず同様な気骨のある人が多かった。

 日本人の道徳観の基本は、人に恥じる事を最も忌避していたはずである。それは何かといえば、大儀をないがしろにして己の利益の拘泥する事であった。「昭和33年」に、「今騒がれている格差社会はなど、当時と比べると屁みたいなものである」とかかれているが、当時も格差が無かったとはいわない。しかし、そこには十分な納得性があった。

 「政治の世界は、政治化、官僚の質を見る限り、今も昔もそれほど変わっていないが、(今の方が)透明度を増し、政治と国民の距離も一部で狭まった。」と書かれていて、透明度とはテレビのワイドショウの事でもさしているのだろうか。当時は官僚上がりではなく、党人派と称される個性豊かな政治家が多数存在し、政府に対しても強い影響力を持っていた。

 当時、政府が最も神経を使ったのが物価の上昇であり、物価の上昇は直ちに低所得者層に影響し、外国企業との競争に響く事になる。したがって、政府・日銀は細心の注意を払って、景気動向により公定歩合や日銀券発行高の操作をしていた。

 当時の景気動向は今と違って、実需に伴うものであった。当時は今のような情報社会ではないから景気の低迷はすぐに在庫の増加に結びつき、工場は操業の低下になったのである。

 「昭和33年」代表される団塊世代は、このような先人達の努力の結果、世界に冠たる経済大国が出現できた事を忘れているのではなかろうか。

 「今の世の中、極貧でうごめいている人はほとんどいない」そうだが、実需を伴わないマネーゲームでは、働く意義を失って、自ら経済社会に背を向けた人が増えている現実にどう応えるのだろうか。(07.05仏法僧)