サイバー老人ホーム

219.我が「昭和33年」6

 確かに、当時は「一様な知恵は年長の高位者によってリードされて」来た感はする。ただ、これに若者が無知蒙昧に従ってきたわけではない。

 私が実社会に入った頃、各大手企業が競うようにしてコンピューター(電子計算機)を導入したが、この使い方についてはまだ暗中模索の段階であった。

 それまでは、一つの仕事を身につけるまでは、何年もかかって階段を上っていく下積み時代があって、年長の高位者になって全てに精通した名人の域に上り詰めるのである(たしかにそうでない人もいた)。

 ところが今の時代、この下済みの時代を省略し、新入社員でもすぐに名人の域に到達できる。それは、コンピューターによってこの下済み時代を省略しているからである。

 昭和33年ごろ、製造業ではどこにもあった旋盤と言う工作機械で、名人級の仕事をする人は、金属を切削する工具(バイト)の形状に独特の工夫があり、これを知られたくないために帰る時は、分からないところに隠してかえると言う話を聞いたことがある。

 作業者にしてみれば永年の努力の結果身につけたもので、おいそれと他人に知られたくなかったのだろう。
 ただ、こうした昔気質の仕事は、昭和40年代に導入された品質管理で標準化と言うことで、厳しく排斥されたが、日本の発展の原動力となっている。

 そして、40年代からは、コンピューター制御による機械は飛躍的に普及し、下積み時代を省略して、名人と初心者の差をなくしていった。このことが、生産現場だけのことでなく、間接部門においても同じである。

 このことから、「昭和33年」に、「高位者によるリード」と言う考えが出てきたのかもしれない。
 しからば、「高位者のリード」は、「常道を覆すような大胆な発想」にはならなかったのだろうか。

 そもそも常道とは「常に変わらない真理。人が守るべき道」と言うことで、果たして、真理を覆すような大胆な発想とはどんなもので、それがこの国を幸せにしたかと言うとはなはだ疑問である。

 民も官も極貧の中に喘ぎながら、やがては世界に冠たる工業立国を果たした先人達の努力は大胆な発想であったかどうかは別にして、決して間違いではなかったはずである。

 ただ、終戦までの軍部による圧政の反動として、異常なまでに反戦と自由平等思想が発展し、政治的にもっとも活発な時代であったのかもしれない。このため、各地で労働争議が多発し、これに学生達が呼応して騒然とした時代であった。

 取り分け、60年(昭和35年)に日米安全保障条約改定(安保)に当たっては、日本全体が揺れ動いた。この安全保障条約締結を推し進めたのは、当時の岸信介内閣であり、いまの安部慎太郎総理の祖父である。

 岸総理は、何かの鳥に似ているなどと言われ、今となっては安保条約についてさほど批判する人もいないが、当時は若者の多くは批判的であり、その意味では岸総理は戦後もっとも憎まれた総理であったのかもしれない。

 ただ、当時、これら争議で二言めには、階級闘争が叫ばれていたが、果たして市民の中にどれほど階級(支配と被支配)意識があったか疑問である。

 今の格差社会と違って、民主化された、資本家、経営者、労働者との間にはそれほどの格差など存在しなかった。その結果、「1億総中産階級」などといわれるが、それは昭和33年よりはるか後になってからである。

 最近読んだ、田辺聖子さんが「道頓堀の雨に別れて以来なり」と言う明治末から現在に至るまでの川柳の変遷や人脈について書かれた本のなかに、過去の様々な佳句が紹介されている。この本を読んで川柳と言うのがその時代を反映するのに如何に優れたものであったか初めて気がついた。

 その中に、「団交の双方にいるわからずや」と言うのが有る。当時は、いわゆる体制側も労働者側も烈しく対立し、口角泡を飛ばしてがなりあい、取り分け政府とのかかわりのある、国鉄・日教組などが闘争の先頭に立った。

 「昭和33年」に、フリーター、ニート、引きこもりなど最近の若者世代に対する批判の矛先が、その親の団塊世代に向けられていて、「団塊世代は子育て失敗世代とも言われ、ますますむかつく」と書かれている。

 私も取り分け「子育て失敗世代」とも思わないが、ただ、この時代に、教育の現場を預かる教師と、所轄中央官庁との協調体制がとられていなかった事は事実である。

 勿論、子供の教育が全て教師によるものではなく、家庭や社会での躾が大きく影響する。私などは、戦前教育などは形だけであり、実質は何も行われなかった。だからその程度の人生だったと言われればそれまでだが、ただ、殆んどの日本人が体験した貧しさに耐えることと、昔からある羞恥心は人間形成の面では大きな支柱になっている。

 団塊世代の親達が、あたら青春を棒に振った戦中に味わった苦しみと、戦後の挫折感は想像もできないが、同時にわが子にだけは同じ苦しみを二度と味合わせたくないと思ったのもまた当然である。

 その結果、前述のような猫可愛がりと、適性を無視した高学歴社会へ突入によって、現在の「段階世代」を形成したと言う事であれば、一体誰を恨めということになるのだろうか。(07.05仏法僧)