サイバー老人ホーム

218.我が「昭和33年」5

 私も「昭和33年」当時がよき時代であったとは思わない。ただ、当時、自分の幸せもさることながら、その前提には国が豊かになること、更には自分の会社が発展することに常に心がおかれていたような気がする。

 確かに、昭和31年には、「もう戦後ではない」と言われていたが、国民の心のおくには、戦中の残渣が強く残っていて、戦争と言う事と封建制と言う事に対してはかなり敏感であった。

 「昭和33年」には、当時と、現在との様々な数字(パーセント)を比較して論じているが、大きな見落としがある。それは、日本は太平洋戦争によって、人材以外は全て失ったということである。

 今の時代と比べても、むしろ人口は多かったかもしれない。おまけに、団塊世代と言う大量の不就労世代を抱え、食料も、技術も、生産手段もおまけに、政府も企業も個人も全てが金のないゼロからのスタートだった。

 欲望は誰しもあったが、まず、最初に取り組んだのが、どうやって生き延びるかと言うことである。その中で、企業が取り組んだのは、外国企業に負けない技術をどう確保するかである。そのために、多くの企業が外国企業との技術提携により、高いローヤリティを払いながら先進技術の習得を図った。

 勿論、独自技術で世界に伍していった企業もある。いち早く、戦前からのお家芸である繊維関係、更に手先の器用さを発揮した精密工業、そして勤勉さから生まれたトランジスター製品などである。

 ただ、これによって、1億にもならんとした国民を養い得たかと言えば否である。最大の問題は外貨事情であった。現在は8千億ドルとか気の遠くなるような外貨保有があるが、当時は高々1億ドルにも満たなかったのではなかろうか。

 舶来品崇拝の気風のある中で、国を守るための貴重な外貨を守るために、一にも二にも外貨獲得が叫ばれ厳しい為替管理や、「国産愛用」政策が採られ、個人の外国旅行など想像することもなかった。

 当時、政府・日銀の採った主要経済政策は、物価上昇を抑えることと、雇用創出、外貨獲得ではなかったろうか。これらはお互いに相反する作用をするが、政府と日銀は、戦後慢性的になっていたインフレ傾向を押さえるために、公定歩合を操作し、景気の過熱を抑えつつ、しかも産業の振興を図ると言う難しい舵取りを迫られた。

 もう一つ国民が求められたのは、全ての行動の規範は、親の時代から受け継いだ道徳観であったような気がする。まず、何はさておいて天職を身につけるということではなかったろうか。

 この天職とは、大好きな藤沢周平さん描くところの桶屋の職人になるということではない。男子生まれた限りは一家を養う技術(知識)を身に着けるというのが使命であった。

 ニートとか、パラサイトシングルなどと言うのはもってのほか、それぞれに生き延びるための天職を得るために必死だった。ただ、そうして手に入れた天職が、文字通り天職になったのは殆どいない。

 「昭和33年」には、当時の神戸には500を超える商社があり、扱い商品も7千を超えたと言うことになっているが、果たしてどうだったろうか。

 如何に不景気と言えども、それぞれが、それぞれの生活の寄る辺、すなわち生業は持っていたわけで、その数が500を超えても不思議ではない。

 しかし、一体どれほどの商うべき商品があったかと言うことである。私の同級生でも、いわゆる一流会社に就職できたのはほんの僅か、残りは殆ど個人商店であった。「三丁目の夕日」と言う映画で、六ちゃんと言う少女の就職先のようなものであった。

 今でも忘れないのは、「コウモリ傘の柄の商社」と言うのと、「下駄の鼻緒の商社(店)」に就職した友人があった。

 勿論、これがいけないと言うことではなく、立派な生業である。ただ、この商品がその後どのような経済の流れに翻弄されたのかは分からないが、単なる数字だけでは論じられない浮沈があったに違いない。

 雇用情勢は、ついこの前のバブル崩壊後と聊かも変わりなく、雇用不安は常に付いて周り、同じ仕事をしてもいても、「日雇い」と呼ばれる臨時従業員などの身分制も存在した。ただ、処遇面で今ほどの格差はなかったような気がする。

 「昭和33年」には、「就職状況は斑模様で、理工系の大学生は引っ張りダコ。技術系高校生も売り手市場(中略)。女子短大生にも求人が集まり、技術系以外の高校生、中学生は苦戦した」と書かれている。

 確かに、この後の「岩戸景気」の頃になって、当時の産業界での主流を占めた製造業における稼働率は向上しただろう。しかし、技術系が重要視されたのは、この頃よりはるか後の事で、当時は現業職の中卒が「金の卵」として注目され始めていた。

ただ昭和33年頃、大手製造業は、中卒を「養成工」として採用し、社内の青年学校で、現場実習と、理論の両面から鍛えていた。しかも、この養成工は、全国規模で選抜するからきわめて優秀な中学生が選ばれ、当時行われた技能五輪において、日の丸が上位を独占するような状況だった。

 ただ、身分的には技能職、すなわち職工と言う事から、40年代に入っての「いざなぎ景気」辺りから、重点的に引き抜かれ、養成工制度は消滅している。

 女子の場合は、今のように第三次産業が発達していなかったので、かなり苦労されていたのかもしれない。取り分け短大卒は、高校卒がだぶついている中で、給与だけが高くなると言う事で敬遠され苦戦を強いられた。その後、「女子大亡国論」が話題に上がり、今のような「女子優性」が、明確に成ったのは最近になってからである。

 「昭和33年」に、「現代の若者の多くは、挫折しても戻る避難所がある。『1人前になるまで家の敷居は跨がせない!』と怒鳴るオヤジは、今はほぼ絶えた。(中略)傷ついた若鳥が戻る巣は、親鳥が程よく暖めて、親の顔が見たくなければ、自分の個室に籠もっていればよい。同じ屋根の下で暮らし、無料の三食付でも、親と交流しなくてすむ。(中略)都会の仕事の辛さに、子供のうちからこんな境遇に追いやった親を恨む集団就職者は、たくさんいたと思う。」と書かれているが、驚くべき思い違いである。

 当時の集団就職の中学生達は、全てではないとしても、「三丁目の夕日」の六ちゃん同様自分の育った境遇に、親を恨んだり、世間に背を向けるようなものは1人もおらず、青雲の意気に燃えて旅立っていった。(07.04仏法僧)