サイバー老人ホーム

217.我が「昭和33年」4

 ここからは、布施克彦さんの「昭和33年」による。布施さんは、昭和22年生まれと言うからいわば団塊の世代である。従って、昭和33年当時は11歳と言うことになる。 その後、一流大学を出られ、一流商社に入られ、世界を股にかけて活躍されたエリートの方らしい。

 「昭和33年」によると、日本人は「昔は良かった症候群」で、「何時の時代でも過去を美化して未来を憂う」国民らしい。その根源は、木の文化と石の文化の相違と言うことである。

 事の真偽は別にして、日本人はもともと農耕民族であり、その未来は常に天候に左右されており、神のみ知る天候に左右されたことは事実である。

 そのため、未来に対する心配性であったことは永年のDNAであったのかもしれない。ただ、昔は良かった症候群であったかどうかは定かではない。今では、封建時代の典型とされる江戸時代を冷静に見直しされており、取りも直さず勝者の歴史の見直しであろう。

 ところで、「昭和33年」は、「神武景気」に沸いたように書かれているが、これは違うのではなかろうか。確かに、「神武景気」と言うのはあったが、それ以前の日本に、果たして好景気と言うのはなかったのである。

 幕藩体制の江戸時代では、藩ないしは地域によって、一時的な好景気と言うのはあったのかもしれないが、総じて支配する幕藩とも貧困に中に苦しんだ。

 この状況は、明治新政府に変わっても同じで、各地に一揆が発生している。その後、軍の台頭による統制経済でもいうに及ばず、戦後の経済立て直しにおいても然りである。
 その意味において、国家的好景気と言うのは、まさに神武以来のことであって、「神武景気」と称されたが、今の景気回復と言う感覚とは全く違う。

 当時の国力と言うのは、戦争によってことごとく破壊され、あらゆる面で諸外国に比べかなりの遅れた状態にあった。そのため、国民の生活をとやかく言う前に、国が成り立つかどうかの瀬戸際にあったのである。すなわち、殆どの物資は輸入に頼っていて、わずかに昔からの繊維関係が輸出の花形であった。個人の懐具合より、国の懐具合、すなわち外貨準備高に国民がこぞって一喜一憂していた時代であった。

 産業の主なものは、外国企業との技術提携により、技術を習得し、かろうじてライセンス生産をしていた。この当時、ようやく世界に肩を並べつつあったのが、造船・重機などの生産財で、自動車や家電などに代表される消費財はかろうじて国内需要にむけてわずかに動き出したにすぎない。

 これが何時頃であったか記憶は定かではないが、三黒景気と言うのがあって、今では歴史の波に消え去ってしまった、石炭産業など主役としてこの国を支えていた。
 残りの二黒は鉄鋼・造船だったろうか、いわゆる、今で言う成熟産業と言うのは羽振りを利かせていて、今をときめく自動車産業なども、とても外国メーカーに伍して戦える代物ではなかった。

 「昭和33年」によると、当時の平均給与は3万5千円で、総理大臣の年費が11万円だと書かれている。私が入社した頃、寮費とか、様々な控除を引かれたいわゆる手取りは4千ほどであった。
当時、私が住んでいた元住吉の独身寮の周りの土地が、4千円と言うことで、「毎月1坪買えるんだなあ」などと話しあったことがあった。

 その2年後の給与がいくらだったか定かではないが、「神武景気」による大幅賃上げなどと言うことは全く考えられなかった。各地に、人員整理などが行われ、赤旗が林立して、労使の間には、相対的に対立する関係があった。

 ただ、対立と行っても、昭和20年代の「米よこせ」運動のような、階級闘争からは僅かに外れつつあったのかもしれない。

 ただ、好景気と言うのはあっという間に終わり、続いて長い不況に突入し、どうして自分達の生活を維持するかと言う事に注意が向いていたのではなかろうか。昭和33年頃より、「鍋底景気」と言う不況を向かえるが、「昭和33年」によると、「神武景気」により日本経済は立ち直り、もはや戦後でないといわれ、「鍋底景気」も底の浅い景気低迷だったといっているが、そんなことはない。

 根本的に今の経済との相違は、当時はまだ国民の消費意欲とか、それを裏打ちする産業の景況感などなかった。まだ生産財の振興により、国の財政を支えていたのである。

 私が入社して、最初にほしいと思ったのは背広であり、その次は勉強机だった。それから、5球スーパーと言うラジオであった。当時、国民車構想の下に、「スバル360」がこの年に開発されたと言うことだが、自動車はおろか自転車すら買えなかった。

 当時、欲しいと思うものはまず自分で手の届く範囲のことで、自動車などは夢のまた夢で、その前に自動車免許をつることに関門を越えなければならない。
 私が自動車免許を取ったのは、昭和42年で、当時は意地の悪い試験官がいて、いかに合格させるかではなく、いかに振るい落とすかであった。

 「昭和33年」には、日本人は、欧米人に比べて楽観性にかけ、悲観的であるといっている。これは、常に狭い世界観を前提にしており、限定空間内のシステムが旨く行くときは良いが、一旦機能不全と慣れ間たちまち行き詰まってしまうそうである。

 確かに、楽観性にかけるきらいはあるが、日本人は、大昔から、何らかの社会の中で寄り集まって生きることに慣らされて来た。いわゆる狭義の「中央集権」で、それがために、安心感もあった。逆の見方をすれば、氷川きよし君の「箱根八里の半次郎」に様なのもあったが、西部劇のように馬に乗って自由奔放に動き回ることはせず、総じて生まれ故郷に土着していた。

 このことは、土着の中で幸せ(必ずしも幸せでない場合もあるが)に生きることを為政者が常に作り上げてきたのである。この傾向は最近まで続き、最近になって「規制緩和」が叫ばれようやく自由奔放に活躍できる世の中になったと勝手に思っている。

 また、「昭和33年」には、今まで、「長幼の序が支配して来た日本のコミュニティでは、一様な知恵は年長の高位者によってリードされる。年長者は通常高齢者だから、日常的で安定的な明日は読めても、常道を覆すような大胆な未来への発想はない」と書かれている。

 「常道を覆すような大胆な発想」とはどんな発想であろうか。更に、「残された人生はわずかだから、未来に対する思いも守勢となり、過ぎ去りしよき時代に価値をおきたがる。中高年世代の知恵に引っ張られる日本人の単色コミュニティは、未来への見通しが全体に暗褐色に染まりがちである。」と言っている。果たして未来の見通しは暗褐色だったろうか。(07.04仏法僧)