サイバー老人ホーム

215.我が「昭和33年」2

 当時、町には○○食堂とか、すし屋はあったが、今のような酒場はそれほど多くなかった。「よし寿司」と言うすし屋に最初に行ったのは、配属が決まって寮の先輩であり、事務所の先輩でもある二人の先輩に連れられていったのが最初である。

 このときはまだすしの食べ方も分からず、先輩から教わった符丁やマナーが現在でも私のすしを食べるときの基準となっている。

 日曜の昼は外食となるが、もっぱらラーメンだった。もっとも、この頃はラーメンとは言わず、高校の頃は「支那そば」だったが、もしかしたら「中華そば」に変わっていたのかもしれない。
 ただ、カツ丼などと言う高級品はあまり食べた記憶がないが、親子丼でもかなり奢ったものであった。

 寮には、卓球台が1台あり、会社から帰ると、誰もが奪い合うようにしてやった。集会室と言うのがあって、其処ではもっぱら碁を差す人がおおく、私もここで碁を習ったが、碁は驚くほど強い人が、黒山のようにいた。

 ただ、寮での服装は、寒い頃はもっぱら丹前であり、夏場はステテコスタイルだった。
 テレビが寮に入ったのは、問題の「昭和33年」ではなかったろうか。それまでは例の力道山のプロレスは町の喫茶店に見に行った。

 この寮は、私が生まれた年に出来たということで、かなり老朽化していた。風呂は2日おき(日曜は休み)ぐらいにあったが、風呂場全体に湯垢がたまりぬるぬるしていていかにも気色が悪かった。

 気色悪いといえばトイレである。勿論水洗便所ではなく、ぽったん便所である。小のほうは並んで、溝に向かって一斉に放尿するタイプのもので、しかも尿石がこびりつき、土気色に変色していて、おまけに蛆虫があちこちに這っていた。

 大の方には今のようなトイレットペーパーなるものなどなく、誰かが持ち込んだ新聞紙を破って使っていた。ところが、時にはそれすらもないときがあり、隣に向かって「誰か、紙を入れてくれ!」なんて怒鳴ると、バサッと頭の上から落ちてきた。

 洗濯機が入ったのも昭和33年ごろだっただろうか、手回しハンドル式のもので、それまではもっぱら盥と洗濯板で、手の皮が擦り剥けるほどやった。新入社員の頃は、衣類の手持ちが少ないから勢い洗濯の回数が多くなる。

 時々部屋を訪れる先輩たちの一抱えもある靴下の束を見るとうらやましかった。ただ、洗濯と言うのは、いくら衣類が多くても同じことと気が付いたのはかなり後になってからである。

 その頃になると、日曜の朝から晩まで洗濯をし、それが終わると使い切るまでやらない。しまいには着るものもなくなって、以前に来たものを引っ張り出し、比較をして良さそうな方をまた着るなんてこともたびたびあった。

 ただ、古い先輩たちは洗濯屋を利用していたが、その中の1人が普段から越中ふんどしをしており、これを洗濯屋に出していた。出すときに専用のノートに書き込みをするが、「白ふんどし1枚」と書いてあったが、どう見ても白とは言いがたい代物であった。もっとも、この人何代目かの国鉄総裁の兄上だと聞いたが、事の真相は定かではない。

 当時の寮生にはそうそうたる人達がいて、二十歳前の新入生から見るとまるで親父みたいな人がごろごろいた。

 当時の遊びは、麻雀をする人も何人かいたが、メンバーがある程度限られていたような気がする。その代わり徹底していて、5月のゴールデンウィークをぶっ続けで麻雀を遣り通したという猛者がいて、年末の清算時には気の遠くなるような、戦果を上げた人もいた。

 ただ、常に同じ人がこうなるとは限らないで、同じメンバーの中で行ったりきたりしていたのかもしれない。大勝したのが、一同を引き連れて盛大に宴会をしたなど言うことは何時も聞かされていたが、果たして誰の金で飲んでいることやら。

 この麻雀グループに共通していたのは、着ていた丹前の尻がともに破れて抜け落ちていたことである。

 新入社員の頃のレジャーはもっぱら映画であった。元住吉駅の隣に、「元住吉東映」と言う小便臭い映画館があって、大川橋蔵さんなんかの豪華2本立て、時には3本立ての時代劇と言うのをやっていた。

 この辺りには、寮生が何時もたむろしていて、時により「新潟の埼玉さん」などと言う奇妙な呼び出しがかかり、「ああ、あいつとあいつだな」なんて思ったりした。

 当時の映画館と言うのは、今のデラックスなシートと違い、ベニヤの背当てのシートだった。しかも、前列との高低差が少ないから恐ろしく見難かった。それでも入場者は多く、座席の後ろに黒山のように立っていた。

 しかも映写室が、客席のすぐ後ろにあり、上映中に、人が横切ると映像が一部見えなくなる。するとすかさず周りから、「頭!」と怒声が上がった。

 当時は、大川橋蔵さんが、ばったばったと悪人をやっつけ、最後に悪人の親玉をやっつけると、期せずして拍手が沸き起こった。このときの親玉は、進藤英太郎さんと言う役者さんの場合が多く、切れられ方が実に見事だった。

 パチンコはあまりやる人もいなかった。その代わり、社交ダンスを習う人は結構いて、寮でも講習会が開かれた。毎年、暮れになるとあちこちの会社で、ダンスパーティが開かれ、私も誘われて何度か行ったが、あの会場で女性に申し込むには相当に勇気が要った。

 基本的には、男性が女性を誘った場合は断らないときかされていたが、清水の舞台から飛び降りる気持ちで誘ったら、物言わずにどこかへ行ってしまった事があり、以来諦めてしまった。(09.03仏法僧)